2009年06月29日

日本の一部から米軍統治を経て独立をした

大韓民国は、第二次世界大戦が終結した後、日本の一部から米軍統治を経て独立をした。大韓民国成立後の歴史は、憲法による政体の相違によって、7つの時代に区分される。

アメリカ軍政庁期(非独立):1945年 - 1948年
第一共和国期:1948年 - 1960年
第二共和国期:1960年 - 1961年
国家再建最高会議(軍政)期:1961年 - 1963年
第三共和国期:1963年 - 1972年
第四共和国期:1972年 - 1979年
第五共和国期:1979年 - 1987年
第六共和国期:1987年 - 現在
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建国以来、大韓民国は共和憲政体制を採用している。国家体制を定める憲法は、建国直前の1948年7月17日に最初の憲法を採択して以来、9回の改憲を経て現在に至っている。特に、国家体制を大きく変えた5回の改憲は韓国政体の歴史的な一区切りとされ、それぞれの時期に存続していた憲法は第一から第六憲法と呼称されている。それにともない、各憲法に基づいて構成されていた政体も、第一から第六共和国と呼称されている。

現在の憲法は第六共和国憲法と呼ばれ、1987年10月29日に採択された。この憲法は、5年毎の直接選挙による大統領の選出を定めている他、大統領の再選禁止なども盛り込まれており、韓国憲政史上最も民主主義的な体制を規定した内容である。第六共和国憲法に基づいた第六共和国は、1988年2月25日に盧泰愚が大統領に就任して以来、今日まで持続している。

2009年06月12日

肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれ、初期には自覚症状は

肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれ、初期には自覚症状は殆どない。病状が進行してくると肝機能悪化及び腫瘍の増大に伴い、全身倦怠感、食欲不振、黄疸、尿の黄染、腹部膨満、腹部腫瘤、腹痛、発熱などが出現してくる。

肝細胞癌は多くの場合は慢性肝炎や肝硬変を持つ患者におこり、症状や兆候は肝硬変の進行を示唆するものとなるので非常に発見は難しい。腹痛や上腹部の腫瘤は所見として取れる可能性はある。肝臓上に摩擦音や雑音が聞えることもある。また血性腹水が認められることもある。

AFPが400ng/ml以上は非常に肝細胞癌を疑わせる。転移性肝癌では原則としてAFPが上昇することはない。しかし早期肝細胞癌ではAFPが上昇しないことも多い。そのため慢性肝障害の患者は定期的にCTやエコーを行う必要がある。

日本において最も多いHCVによる肝硬変の場合はインターフェロン投与で肝細胞癌の発生を減少させる可能性があることが最近になって判って来ている。一方で、インターフェロン維持療法は対照と比較して、死亡・肝細胞癌・肝代償性・線維化に有意差を見出さなかったという報告もある[1]。

また頻度は低いが腫瘍随伴症候群がおこることもある。下痢(血管作動性腸管ペプチド)や高脂血症、低血糖、多発性筋炎、後発性ポルフィリン症や異常フィブリノーゲン症、高カルシウム血症、赤血球増加症などがおこることもある。
日本の物語
私たちの憲法
ハムスター
大気のお話
住宅用語
野菜事典
知って得証券語
南北朝時代
栃木の湯めぐり
蘭の世界紀行
空手道
歯周炎
植物園
銀行
商社
フェンシング
アパレル
映画祭
肝炎
お化け屋敷

血液検査 [編集]
全血算
白血球増加が見られることがある(肝硬変患者では通常減少)
腫瘍マーカー
α-フェトプロテイン(AFP)
60?70%が陽性となるが、肝硬変、慢性肝炎での陽性率が高い。AFPレクチン分画(AFP-L3)は肝細胞癌に特異性が高い
PIVKA-II (protein induced by vitamin-K absence II)
別名DCP (des-gamma-carboxy prothrombin)。40?50%しか陽性とならない、肝硬変、慢性肝炎での陽性率が低い。ビタミンK欠乏で陽性となり、転移性肝癌でも陽性となることがある
上記二つのマーカーを組み合わせる事により広範囲なスクリーニングになるとの報告もある(AFP、PIVKA-IIの相補性による)
PIVKA-IIは異常プロトロンビン(=血液凝固因子のII因子)であり、ワルファリンにより誘導されるため、抗凝固療法施行中は指標とならないことがある。
血清フェリチン

画像検査 [編集]
腹部超音波検査(エコー)
典型的な肝細胞癌は境界明瞭な類円形で、表面に低エコーの被膜を持ち、内部はモザイク状である。血流に富む。
CT
造影CT(ダイナミックCT)が診断に有用である。典型的な肝細胞癌は動脈相で強く染まり、門脈相および後期相では造影剤は洗い流され、周囲肝組織より低濃度に描出される。肝細胞癌は門脈よりも動脈から栄養を受けていることを利用している。
最近ではCT装置の性能向上により、血管造影のかわりにCTA(CT-Angio)によって腫瘍の栄養血管検索を行う場合もある。
MRI
ガドリニウムを用いたDynamic撮像および造影MRIではCTと同様の所見が得られる。また、SPIO(超常磁性体)造影剤を用いた造影MRIにおけるT2強調画像では、正常肝臓が信号低下するのに対して高信号として描出される。但し、分化度の高い肝細胞癌では正常肝臓と同様に信号低下する場合も少なくない。
また、T2*強調画像やIn Phase・Out Phaseによる撮像も有効である。
血管造影
動脈造影では造影初期に強く染まる腫瘍陰影として描出される。通常、手術前の検査やTAE(肝動脈塞栓術)に伴うものとして行われる。定期的な検査として行われることはまずない。
CTA、CTAP(=血管造影CT)
血管造影と同時に、血管造影のカテーテルから造影剤を注入しながらCT撮影を行うもの。

2009年04月24日

ソ連軍侵攻前については

第二次世界大戦中は日ソ中立条約により戦闘地域にはならなかったが、大戦終結直前の1945年8月9日にソ連が条約を破棄して日本に宣戦布告、侵攻し、南樺太と千島列島の全域を占領した。ソ連は翌1946年に併合を一方的に宣言し南サハリン州を設置、1947年これらの地域をサハリン州に編入した。
1945年9月17日、ソビエト連邦により南サハリン・クリル列島住民管理局設置。
1946年2月2日、ソビエト連邦、南樺太及び千島列島の領有を宣言する。南サハリン州設置。
1947年1月2日、サハリン州設置。南サハリン州はサハリン州へ編入される。
ソ連はサハリン全域を自国のものとするにあたり、日本の南樺太統治の中心であった豊原とその周辺を併せユジノサハリンスク市と改称し、これを州都としてサハリン州を成立させた。その後、全域にロシア人の入植が進み、現在ではかつての日本人の居住地も完全にロシア化されている。

1989年から外国人が立ち入りが許可されたために『薬師丸ひろ子が見た! サハリン(樺太)縦断1000キロ』という特別番組が放送された。それで今まで不明であったサハリンの様子が明らかになった。

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ソ連崩壊に伴う冷戦の終結を契機として日本とサハリンの間の交流は活発化し、稚内港からは国際フェリーが、札幌及び函館からは航空機が運航されるようになっている。多くのロシア漁船が稚内港や根室港に入港し、海産物を水揚げするようになったのもロシア連邦成立以降に顕著になったことである。サハリン州との交流の活発化により、稚内市内や根室市内にはロシア語の標識や表記が増えている。また、サハリンにおける油田、ガス田開発(サハリンプロジェクト)の進展により、石油メジャー、日本の大手商社が開発に参加。2004年、採掘された最初の石油が日本に輸出された。日本とサハリン州の関係はさらに緊密になるものと考えられるが、今なお解決されていない領土問題が暗い影を落しているのも不幸な事実である。
一方、千島列島の択捉島について、ソ連崩壊後に続いたロシアの経済不振と1994年に発生した北海道東方沖地震の影響から、人口は減少傾向にあった。

だが、ソ連崩壊後、ユダヤ系ロシア人のアレクサンドル・ベルホフスキーが創業した水産加工のギドロストロイГидрострой社(本社はユジノサハリンスク)が、周辺の豊富な水産資源と北米の冷凍食品市場とを結びつけて、めざましい成長を示し、択捉島の経済基盤は強固なものとなった。同社は現在、別飛(ロシア名・レイドヴォ Рейдово)に日産400tの加工が可能な大工場を持つほか、蓄積した豊富な資本を元に択捉銀行БАНК "ИТУРУП"を設立、金融業にも乗り出した。しかし、日本政府が領土問題がらみで規制を行っているため、日本企業はこのビジネスチャンスに公式には協力できていない。

また、北部の茂世路岳(クドリャブイ火山)は、その火山ガスに、レアメタルであるレニウムを大量に含有している。このため、ロシア科学アカデミーの科学者たちは、レニウムの世界有数の産出源になり得る火山として茂世路岳を見なしている。

インフラ整備では、2015年を目標年次とするロシア政府のクリル開発計画によって、中心都市のクリリスク(紗那)の近くに新空港が建設中である。

北方領土に投資をさせず、経済的に困窮させて日本への返還を誘発しようという日本政府の戦略は、少なくとも択捉島に関する限り、完全に行き詰っているといってよい。

また、国後島ではソ連崩壊後に続いた経済不振と1994年に発生した北海道東方沖地震の影響から、人口は減少傾向にあったが、近年のめざましいロシアの経済成長に伴い、この島にも人口増に向けたテコ入れが始まっている。2015年を目標年次とするロシア政府のクリル開発計画では、立ち遅れているインフラ整備などに重点的な投資がなされる予定である。

ユージノクリリスク(古釜布)に、日本政府のロシアへの援助として建設された日本人とロシア人の友好の家(通称:ムネオハウス)がある。

国後島では、日本のテレビ放送(テレビ北海道は映らない。カラー方式はNTSC)が映り、一部の住民が日本のテレビを情報源にしている。大部分の住民は、ロシアのテレビ(カラー方式はSECAM)を視聴している。北海道放送(HBC)では、一時、北方領土の住民向けに天気予報の画面にロシア語のテロップを入れていた。

2009年2月、戦後の首相として初めて麻生太郎首相が訪問した。

2009年04月06日

イージーリスニング

イージーリスニング(Easy Listening)はその名の通り、クラシック音楽等と違って緊張せずにくつろいで楽しめる軽音楽の意であり、具体的には管弦楽によるポップスを指す。小売店や飲食店、病院等で生活空間の雰囲気づくりのためのBGMとして使用されることが多いためBGMの意味と混同されることがある。癒しのための音楽と勘違いされた使い方もしばしば見受けられる。  また、MOR(middle of the road)とも呼ばれる。

イージーリスニングの歴史 [編集]
元来はムード音楽と呼ばれていた分野である。イージーリスニングの始まりには諸説があるが、1960年代の中頃よりフランスで、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブル、カラベリ等のグランド・オーケストラが台頭し、ポップスの管弦楽アレンジを多数発表したことが、現在の意味でのイージーリスニングの呼称の始まりになったというのが一般的である。従来のムード音楽と呼ばれていた時代のサウンドとの相違点としては、R&Bやフュージョン等の現代的な要素をとりいれていることがあげられる。晩年のパーシー・フェイスもこの路線であった。

なお、アメリカのビルボードに1961年から1962年までの間と1965年から1979年までの間の2回EASY LISTENINGのCHARTができていたことがある。

日本では特に1970年代から1980年代にかけて、前述のアーチストの他にフランク・ミルズの『愛のオルゴール』やリチャード・クレイダーマンの『渚のアデリーヌ』などのヒットもあってかなりファンが増えたが、ヒット曲のある中心的アーチストは2008年現在ほとんど死去または引退状態で現役はリチャード・クレイダーマンのみである。

キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

2009年03月22日

ヒケ(ひけ、Sink Marks)

ヒケ(ひけ、Sink Marks)とは、工業製品において材料が起こす成形収縮によって生じるへこみ、窪みである。主として射出成形(インジェクション)などの金型を用いて作られた合成樹脂製品に顕著に見られる現象である。
スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

合成樹脂のヒケ [編集]
射出成形では、溶解したプラスチックを金型内に射出して製品を形作るが、樹脂の種類によって程度差は有るものの、冷えて取り出された製品は溶けた樹脂の状態と較べて多かれ少なかれ収縮する。そのため出来上がった製品は金型の内面そのままの形状とはならず、へこんだり、極端な場合には深い穴が開いてしまったりする。この収縮による不良をヒケと呼ぶ。

この収縮は当然ながら射出された材料の量に比例するので、製品に厚みの有るものほどヒケを生じやすい。例えば、表面は平面でも裏面に凹凸が有る形状では、裏面が凸の部分が収縮し、表面側にヒケが生じる。

ヒケの発生を防ぐには、なるべく均等な製品設計を行い、同一製品内でもブロック状に厚みがある部分には製品の品質に影響しない形で意図的に凹部を形成する(いわゆる「肉抜き」「肉盗み」)を施すといった配慮が必要になる。また逆に、ヒケることを予め計算してその部分に厚みを持たせ、ヒケた状態で狙った形状を得るという方法もあるが、これには極めて高度な金型製作技術が要求される。

成形条件でヒケ発生を抑制するには、樹脂にかかる温度を可能な限り抑える手法が用いられる。樹脂温度や金型温度を低める設定が一般的である。また、ヒケ対策には樹脂の充填密度を高める手法も有効であり、このために射出圧力や背圧を強める方法も取られる。ただし、これらの手段は樹脂の配向や残留応力を高めたり、成形時間が長くなるなどの欠点があり、これらを織り込んだ成形条件のバランス調整が求められる。

プラモデル [編集]
プラモデルでは、金型技術が向上して薄肉で成形することが可能になったため、2007年現在ではあまり見られなくなったが、かつてのプラモデル・キットでは部品のヒケやバリの存在は当たり前だった。綺麗な完成品を目指す場合には、模型用のパテを用いてパーツのヒケを埋める必要があるが、このパテ自体もヒケを起こす。

エポキシパテのような化学硬化性のものはさほどではないが、ラッカー系パテのように溶剤を揮発させて硬化するパテでは、揮発した溶剤の分だけ容積が減少し、パテを充填・塗布した面がヒケてしまう。そのためパテは厚めに盛り、硬化後に余分を削り落とすと言う作業が必要になる。

鋳造でのヒケ [編集]
樹脂ほど顕著ではないが、金属の鋳造においてヒケは生じる。例えば自動車のエンジン部品のように分厚い金属ブロックを鋳造する際に発生するヒケは、ス(製品に空気が入って予期しない空洞を形成する)と並んで注意を要する。

2009年03月07日

ミルウォーキー (防護巡洋艦)

ミルウォーキー (USS Milwaukee, C-21) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。セントルイス級防護巡洋艦の1隻。艦名はウィスコンシン州ミルウォーキーに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴
ミルウォーキーは1902年7月30日にカリフォルニア州サンフランシスコのユニオン鉄工所で起工した。1904年9月10日にジャネット・ミッチェル(ウィスコンシン州選出上院議員ジョン・L・ミッチェルの娘)によって命名、進水し、1906年12月10日に艦長チャールズ・A・ゴーヴ中佐の指揮下就役した。

1907年3月14日から5月28日までメキシコおよびカリフォルニアの沖合で整調を行った後、ミルウォーキーは6月26日にサンフランシスコを出航し、アメリカ合衆国の権益保護のためサンサルバドルとコスタリカ沿岸を巡航、マグダレナ湾では戦隊とともに砲撃訓練を行った。その後1908年3月26日にサンフランシスコからワシントン州ブレマートンに向かい、4月25日に予備役となる。1908年の夏はハワイとホンジュラスへ巡航し、その後ピュージェット・サウンド海軍造船所で1910年5月3日まで予備役に置かれた。

ミルウォーキーは1913年6月17日に現役復帰し、太平洋予備役艦隊に配属される。続く2年にわたって数回の短期巡航を行う。ワシントン州の海軍民兵を乗せ1914年7月1日から22日までホノルルへ巡航、あとはカリフォルニアの沿岸で行われた。1916年3月18日、ミルウォーキーは予備役艦隊から、太平洋艦隊の駆逐艦および潜水艦の母艦任務に割り当てられる。サンディエゴを拠点としてミルウォーキーは演習および艦隊訓練に参加し、メキシコ水域の偵察、難民の搬送、調査任務に従事した。
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

1916年後半にメア・アイランド海軍工廠でオーバーホールを行った後、ミルウォーキーは1917年1月5日にカリフォルニア州ユーレカに向けて出航、1916年12月14日にフンボルト湾で座礁したH-3 (USS H-3, SS-30) の救助支援に向かう。救助作業中の1月13日、ミルウォーキーはサモア・ビーチで座礁する。乗組員は浜に無事上陸したものの、艦の復旧には失敗した。

ミルウォーキーは1917年3月6日に退役した。1918年11月の嵐により船体は二つに割れる。ミルウォーキーは1919年6月23日に除籍され、船体は1919年8月5日に売却された。

2009年02月18日

写真フィルム

写真フィルム(しゃしんフィルム)とは狭義には映像記録用メディアの一つで、透明な薄い膜状のベース(支持体)に感光剤(主として銀化合物=銀塩)を塗布したもの。単にフィルムとも言われる。

写真や映画を中心にした映像を、感光剤の化学反応を利用して光学的に記録するメディアである。
パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

感光材料としてのフィルムとは、旧来の写真乾板に対立する概念といえる。壊れやすいガラス製乾板に対し取り扱いやすく保存性・即用性に優れ量産しやすいフィルムの発明は写真の普及の原動力となった。またロールフィルムの実現は、映画発明の直接の基盤技術でもあった。

銀塩式フィルムは、露光(狭義にはカメラなどで撮影)した後、現像・定着・焼き付け処理を経て初めて肉眼に見える画像を得ることができる。

以前はニトレート・フィルムが使用されていた。ニトレート・フィルムは燃えやすいニトロセルロース製で時に火災の原因となり写真館等の火災保険が高価であった程で、危険物第5類に指定されていた。1950年代以降燃えにくいアセテート・セルロース製セーフティー・フィルムに置換されたが、初期のセーフティー・フィルムは劣化が早いことが問題となり、1990年代頃からポリエステル製に置換されている。

2000年頃からのデジタルカメラの普及により売り上げが激減しており、一部のフィルムメーカーでは倒産や写真フィルム事業からの撤退があり、また存続のメーカーでもラインナップ縮小という事態に陥っている。カメラ用フィルムの製造には巨額の設備投資が必要であり、一度廃業すると再生産は極めて困難である事から、フィルム式カメラの愛好家には危惧されている。

モノクロフィルム
黒と白の濃淡(モノクロ)で表現するフィルム。現在でもよく使われ、カラーフィルムの現像プロセスで現像するモノクロフィルムも市販されている。かつてはネガフィルムだけでなくリバーサルフィルム(ポジフィルム)も製造されていた(8ミリ映画用モノクロフィルムは大半がリバーサルだった)。現在は一部の現像液を用いて反転現像処理をすることでポジが得られる。

コピー用フィルム
文献等の複写を行なうときに使うフィルム。コントラストが強く、高解像度。一般的なマイクロフィルムはここに含まれる(マイクロフィルムは古くはモノクロ・文献用のみだったが、現在ではカラーの階調画像を記録するものもある)。
カラーフィルム
リバーサルフィルム
被写体の色がそのまま再現されるフィルム。ポジフィルムともいう。透過原稿用・スライドプロジェクタでの鑑賞用に使われる。また8ミリ映画用カラーフィルムの大半はリバーサルだった。

ネガフィルム
被写体の色や濃度が反転するフィルム。映画用やプリント用などに一般に広く利用されている。ネガと略称することもある。

インスタントフィルム
撮影後、特別の現像作業を必要とせず写真が完成するフィルムまたは印画紙。数十秒から10分程度で可視像が得られることからインスタント(即席)と呼ばれる。

感色性によるもの(主にモノクロフィルム)
レギュラー・クロマチック
青紫 - 青色光の波長にのみ感光するフィルム。主に製版用フィルム。
オルソ・クロマチック
青紫-黄色光の波長にのみ感光するフィルム。かつてはポートレート用に盛んに使用された。コダックのヴェリクロームが代表的なフィルムである。
パン・クロマチック
全整色性フィルム、青紫 - 赤色光の可視光線全域の波長に感光するフィルム。現在のモノクロフィルムはほとんどがこのタイプである。
スーパーパン・クロマチック
可視光線全域の波長、さらには一部の赤外線領域にまで感光するフィルム。
赤外線フィルム
赤外域に感度をもつモノクロフィルムとカラーリバーサルフィルム(両方ともコダックから発売)。科学記録や不可視環境撮影(夜間監視など)で使用される。肉眼(可視光)と異なる独特の画像が得られるので、芸術目的の風景写真などにも使われる。詳細は赤外線フィルムを参照。
エックス線用フィルム
特にX線に感度を有するフィルムをノンスクリーンタイプエックス線フィルムと呼ぶ。(大半のフィルムはX線で感光する。そのため、空港での手荷物検査時にフィルムがX線かぶりを起こすことがある)。この種のフィルムは感光効率が低く、高いX線輝度を必要とするため、歯科など特定分野を除いては医療用には用いられない。
医療用に用いられるエックス線フィルムは、X線を吸収して蛍光を放つ増感紙とセットで用いられるスクリーンタイプが一般的である。フィルムの分光感度特性は増感紙の蛍光に対応しており、一般にオルソ・クロマチックタイプの乳剤が用いられる。多くの用途では感度を稼ぐためにフィルムの表裏両面に乳剤が塗布されている両面乳剤フィルムが用いられる。この場合増感紙は二枚使われ、フィルムを両面から挟み込む。
放射線用フィルム
放射線によって感光するフィルム。主に医療や産業で利用。広義にはエックス線用フィルムもここに含まれるが、通常はガンマ線を使った撮影に使用されるフィルムを言う。そのほか、電離放射線を検出する感光材料という意味では、核物理学や天文学の分野では原子核乾板と呼ばれる写真乾板がなお主流である。

色温度によるもの
カラーフィルムは特定の色温度下において正しいホワイトバランスが得られるように設計されている。プリント時の補正が出来ないリバーサルフィルムで主に問題となる。

デイライトタイプ
色温度5500度K - 5900度Kによる撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。ほとんどのカラーリバーサルフィルムはこのデイライトタイプである。昼光、青色写真電球、青色フラッシュバルブ、フラッシュライトによる撮影に使用。
タイプA(タングステンタイプ)
3400度Kの写真電球や小型映画用ハロゲンランプによる撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。小型映画用の8mmフィルムはこのタイプであったし、かつてコダクロームにKPAというプロ用のタイプAフィルムが存在した。
タイプB(タングステンタイプ)
3100度K - 3200度Kの一般的な写真電球による撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。現在でもプロ用のエクタクロームEPYやフジクローム64Tなどが発売されており、スタジオでの商品や人物撮影に用いられている。コダックのラッテン(Wratten )85Bフィルターまたはその同等品を用いることにより昼光でも使用できる。
タイプF
3800度Kのクリアフラッシュバルブによる撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。かつてエクタクロームタイプF(ASA32)が存在したがフラッシュライトが普及して姿を消した。
タイプE
タイプEというのは正式な名称ではないが、6500度Kの初期のフラッシュライトによる撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。かつてアンスコのアンスコクロームに存在したのが唯一のものである。
タイプS
プロ用カラーネガフィルムは相反則不軌の影響を避けるため、短時間露光用と長時間露光用の双方が製造された。タイプsは短時間露光用でデイライトタイプである。
タイプL
プロ用カラーネガの長時間露光用でタングステンタイプである。1/30秒より長い露光時間で適正なカラーバランスが得られる。

形態によるもの
ロールフィルム
長いフィルムを巻いて使うもの。一般の写真フィルムは主にこれ。

シートフィルム
ビューカメラやレントゲン装置(直接撮影)で用いられる。いわゆる4×5in、8×10inサイズはシートフィルム。インスタントフィルムも大半はシートタイプだが、実質的にはフィルムというよりも印画紙である。

ディスクフィルム
円盤状のフィルムを回転させつつ撮影する。

ISO感度によるもの
ISO感度の高低により現在はほぼ以下のように分類されているが、技術の進歩によりだんだん高感度になっている。

低感度
一般にISO感度100未満を低感度という。粒状性は非常に細かく、解像力などの描写特性も非常に高い。そのため感度が低い事による使いにくさを覚悟しても、解像度や色再現、質感などを徹底して要求される被写体の撮影に用いる。その一例として、大きなサイズで高画質での引き延ばしが必要な場合や、精密さを要求される接写、風景写真、商品写真や若い女性のポートレートといった用途が挙げられる。カラーの場合、ほとんどがリバーサルタイプである。
中庸感度
一般にISO感度100 - 200程度を中庸感度という。感度・粒状性・解像度などが低感度や高感度に比べて中間的な性質を持ち、用途的にも比較的無難で、標準的なものである。しかし最近ではこのクラスも従前の低感度クラスと同等以上の描写性を持つようになって来たし、ネガフィルムの場合ISO400クラスが標準感度になりつつある。
高感度
一般にISO感度400 - 1000程度を高感度という。粒状性はやや粗いが、今では従前のISO100と同等以上にまで描写性が改善され、感度本位のものとして、白黒ネガやカラーネガではISO400クラスが標準感度になりつつある。ISO100クラスに比べ日中屋外でも天候の変化などに対しても使いやすく、特にF値の暗いレンズが多いズームやコンパクトカメラでは有利である。F値の明るい単レンズでは、高速シャッターの使用や、室内でのノンフラッシュ手持ち撮影が可能となることもある。またモノクロや内式カラーリバーサルの場合、ISO1600 - 5000程度までの増感現像が可能な場合もある。
超高感度
一般にISO感度1600以上を超高感度という。粗粒子であり、これも従前のISO400 - 800クラス並みに改善されたとはいえ、画質の面では他の感度に比べ明らかに差が付く。そのため多少の写りの悪さを覚悟しても、高い感度が必要な暗い場面や高速の被写体に用いる。その一例として、室内スポーツや超望遠レンズの手持ち撮影、ライブなどの舞台、盆踊りや縁日などの夜間の夏祭り、博覧会場などの屋内展示場、天体撮影などといった用途が挙げられる。モノクロの場合はISO6400またはそれ以上の増感が可能な場合もある。

規格によるもの
特記しない限りロールフィルム。
2×3in
シートフィルム。
3×4in
シートフィルム。
4×5in
大判カメラ用のシートフィルム。通称シノゴ。 最近は揺らしてもフィルムがずれないというメリットがあるクイックロード式フィルムホルダーが主流となりつつある。
5×7in
大判カメラ用のシートフィルム。通称ゴヒチ。
8×10in
大判カメラ用のシートフィルム。通称エイトバイテン、略してバイテンとも呼ばれる。
11×14in
大判カメラ用のシートフィルム。イレブンフォーティーンと呼ばれる。通常販売されていることは少なく、受注生産がほとんど。
8ミリ
映画用フィルムの規格。幅16ミリの映画用フィルムを半裁して片パーフォレーションの8ミリ幅としたもの。映画『ローマの休日』で有名になった鈴木光学のエコー8はこの8ミリ幅フィルムを使用した6mm×6mm判の20枚撮りスチールカメラ。
その後、送り機構に必要な幅を小さくして撮像面積を広げ画質改善をはかった「スーパー8」「シングル8」という新規格が誕生した(旧来の16ミリフィルムを使う規格は「レギュラー8」「スタンダード8」「ダブル8」などと呼ばれて区別される)。
8ミリはアマチュア用の映画の規格と位置づけられており、フィルムの使用量の削減が重要であったことから、リバーサルフィルムが多く用いられていた(ネガタイプのフィルムを使うと、ネガとそれを反転させた上映用プリントが必要になり、フィルムの使用量が2倍になってしまうため)。

9.5ミリ(en:9.5mm film)
映画用フィルムの規格。フランスのパテー社(en:Pathé)が開発し1922年に発表したパテーベビー・ホームフィルムシステムの規格。フィルム幅は9.5ミリだがセンターパーフォレーションの独特のフォーマットを採用してフィルム幅いっぱいにフレームを取っていたことから露光面積が広く画質が良いことが特徴だった(8ミリ・ダブル8規格と比べて、フィルム幅はわずかに20%増し程度であったものの、露光面積は実に3倍にも達する[1])。
この規格は、映画を商品として市販・流通させることを目的として開発された。35ミリフィルムでプリントを作成したのちパーフォレーション間を3等分したら幅が9.5ミリになったとされる。撮影用カメラも市販されていた。
日本には1924年に輸入が開始され、第二次世界大戦前にはかなりの勢力となっていたが、戦争によりフィルムの入手が困難となり中断、敗戦後には16ミリや8ミリにとってかわられて消えていった。
9.5ミリ幅のパテーベビー規格のフィルムは、スパイカメラとして有名な超小型スチールカメラのミノックスの規格にも影響を与えた。ただしパテーベビーとミノックスは、フィルム幅こそ同じではあるもののミノックス用にはパーフォレーションがなく、相互に転用はできない。
16ミリ
映画用フィルムの規格。ニュース映画やドキュメンタリー映画の取材・テレビ番組やテレビCMの送り出し・ハイアマチュアの自主映画製作・小規模上映などの用途に使われた。編集を前提とする用途であったため、基本的にはネガフィルムであった(その後反転焼付けをして上映用フィルムを得た)。
本来は両パーフォレーションで1駒あたり2つずつあいていたが、その後いろいろと改善され、現在では長さあたりの穴数を半分に減らし1駒1パーフォレーションとしたものや、片パーフォレーションにしたものが多い(サウンドトラックは、片側のパーフォレーションがあった部分を使っている)。
このフィルムを流用したスチールカメラもあり、1960年代ごろまではそのためのカートリッジフィルムも販売されていた。画面サイズは10mm×14mm。その後は販売されていないが、映画用のフィルムをハンドロードすることで使用は可能。「ミノルタ16」「マミヤ16」などが有名。ローライ16、エディクサ16等が採用するドイツのDIN-16規格ではスーパー16のフィルムがマガジンに装填され画面サイズも12mm×17mmである。ビスカワイド16は画面サイズ10mm×52mmで水平包括角度100度。
35ミリ
元々は映画撮影用フィルム。通常の商業映画に使われる。その後、スチール写真用フィルムにも転用され、映画・スチール両方の世界でもっとも一般的なフィルムとなった。
 映画用としての35ミリフィルム
映画用としては、フィルムを縦に走らせるのが基本。スタンダード比率のトーキー映画の場合には16mm×22mmの露光面積を持つ。これ以外にも、横走りワイドスクリーンの「ビスタビジョン」、フィルム節約用の特殊フォーマット「テクニスコープ」、サウンドトラックを取らない撮影専用の「スーパー35」など多くの規格が並存しており、必要に応じて選択される。元々は映画の原型である装置、キネトスコープに用いられていたフィルムサイズが標準規格となった。
 スチール写真用としての35ミリフィルム
35ミリフィルムはスチールカメラ用にも流用された。35ミリフィルムは映画用と分岐したのち、独自の発展を遂げた。2003年2月現在世界的に最も広く使われている写真フィルム規格ともなっている。
スチールに使われる35ミリフィルムは、短く切断した上でドイツ・コダックのレチナ用にパトローネに装填して使われることが多かった。この様式については「135」という規格名が与えられている。現在一般に販売されているのは、パトローネにライカ判換算で12枚分・24枚分[2]・36枚分をそれぞれ格納したもの。長尺のフィルムも販売されており[3]、適宜切断してパトローネか専用マガジンに装填して使用する。過去の高級一眼レフの多くは33フィートを一括して格納できる250枚撮りアクセサリーを用意していたし、ニコンF2に至っては100フィートを格納し750枚撮りできるアクセサリーも用意されていた。
スチール写真用フォーマットとしては、24mm×36mmの露光面積のものが主流であり、これはライカにより普及したためライカ判と呼ぶ。ライカ以前にも35mmフィルムを使ったカメラは存在したが、普及には至らなかった。ライカ判では8パーフォレーションを1駒として撮影する。
他にもいくつか露光面積の規格がある。
24mm×32mmの露光サイズのものはフィルムが高価だった時代(第二次世界大戦敗戦直後)に少しでも撮影枚数を増やそうという意図から作られた規格で、ニホン判ともいう。ワイド過ぎたライカ判に比して縦横比も美しかったがアメリカ市場における自動現像機の裁断に合わず、すぐに廃れた。採用したカメラにはニコンI、初期のミノルタ35、初期のオリンパス35、ミニヨン35があり、また同時代日本メーカー群の動向と無関係にイギリスで製造されたレイフレックスオリジナル、チェコスロバキアでメオプタ社が製造したオペマ、ハンガリーで製造されたモミコン/モメッタ[4]も全く同じフォーマットを使用する。このためニコン判、オペマ判等とも呼ばれる場合がある。7パーフォレーションを1駒として撮影する。
24mm×24mm判はツァイス・イコンのテナックス、ドイツのロボットカメラ、キルフィットのメカフレックス、マミヤのスケッチ等が採用しており「ロボット判」と呼ばれることがある。
24mm×18mm判は「ハーフ判」と呼ばれることが多い。ハーフとは先に一般化したライカ判に対して半分という意味だが、映画フィルムの一般的なフォーマットに近く、「ライカ判がダブルフレームである」とも言える(ただし、映画の場合にはサウンドトラックのために使われる幅があり、厳密には異なる)。オリンパスペンシリーズのヒットで一時一般化しペトリハーフ、ミノルタレポ、コニカアイ、リコーオートハーフ、ヤシカハーフ、キヤノンデミ、フジカドライブ等の追随製品が出た。その後もコニカレコーダー、京セラサムライ等断続的に新製品が発売されていたがフィルムの低価格化に伴い廃れている。
その他マミヤ6MFにパノラマアダプターを使用する24×56mmパノラマ、ワイドラックスの24×59mmパノラマ、フジのTXシリーズとそのOEMであるハッセルブラッドX-Panが採用した24×65mmパノラマ等がある。
スチールカメラ用35ミリフィルムの詳細については135フィルムを参照のこと。
65ミリ/70ミリ
これも元々は映画用フィルムの規格として作られたもの。
映画用として、画質改善のために35ミリのものより大きな露光面積を持つフィルムとして、65ミリ/70ミリシステムが開発された。撮影に65ミリ幅のフィルムを使い、上映にはその画面サイズにサウンドトラック(あるいは同期トラック)を付加した70ミリ幅のフィルムを使うというもの(「トッドAO」「ウルトラパナヴィジョン」の2方式)、撮影には35ミリ横走りのビスタビジョンを使い上映に70ミリを使うもの(「スーパーテクニラマ」)などがある。
この規格のフィルムもまたスチール写真用に転用された。120/220フィルムを使用するカメラの交換マガジン用フィルムとして使用されることが多い。
110 (en:110 film)
カートリッジに入り、片パーフォレーション16mm幅で13×17mm判。「ワンテン」、「ポケットフィルム」、「ポケットインスタマチック」などとも言われる。1971年にコダックが発売し、やがて主要なカメラメーカーも対応カメラを製品化した。135フィルムを使用するカメラと比較して小型であることやカートリッジ式によるカメラへの装着のしやすさから「ポケットカメラ」と呼ばれ、主に気軽な携帯用、スナップ用として1970年代から1980年代にかけて普及し、ペンタックスとミノルタから一眼レフタイプのものも登場したが1980年代後半頃に入ると135フィルムカメラのコンパクト化や、フィルムサイズに由来する画質の低さにより急速に姿を消し、現在このフォーマットを使うカメラはほとんど見なくなっている。カメラの構造(特にフィルム送給機構とそれに連動するシャッター)を簡素化できるため、わずかにHolgaの110フィルム用の機種が製造されている。フィルムは現在でも富士フイルム(ISO100)、イタリアのフェラーニア社(Ferrania )[1]の「Solaris」(ISO200)、コダック (ISO400)の製品が国内で流通しており、大型カメラ店、雑貨店などで購入できる。一般の写真店に設置されているミニラボ機では現像や焼付けができない場合が多く、ほとんどは大手の現像所へ取り次ぎとなる。初期のブラジル製レンズ付きフィルムである「LOVe」や国産初のレンズ付フィルムである「写ルンです」最初期モデルは110フィルムを使用していた。1898年から1929年まで同名の5×4in判のロールホルダー規格が存在したが全く関連はない。
なお、2008年5月7日、富士フイルムは製造体制の維持が困難になったため、2009年9月に110フィルムの販売を終了することを発表した。プレスリリースまた、コダックも、2008年9月に原材料費の高騰ならびに需要の低下を理由に110フィルムの製造を終了することを発表した

116
6.5×11cm判に使われたロールフィルム。コダックではNo.1Aとつくカメラ、ツァイス・イコンではイコンタDや、ボックステンゴールの一部、フランスのルミエール6.5×11等がこの規格を使用する。
117
6×6cm判で6枚撮り用ロールフィルム。フィルムの幅は120フィルムと同じだがスプールの幅は少し狭い。ローライフレックスの初期のモデルはこのフィルムを使用するようになっていたが早期に120フィルムに移行して廃れた。ブローニーNo.1とも呼ばれ、アグフアによる呼称では1B。
120(en:120 film)
フィルム幅61.5mm、長さ830mmでパーフォレーション無しのロールフィルム。ブローニーNo.2、2Bとも呼ばれる。120はコダックによる呼称、2Bはアグフアによる呼称である。裏紙が付いていてそこに各フォーマットで使用時のコマ数表示があり、赤窓式のカメラではそれでコマ送りを確認する。35mmフィルムよりも面積が大きい分画質に優れるため、ハイアマチュアやプロによって使用されている。本来は6×9cm判(ロクキュー、8枚撮り)用であったが早い時期に6×4.5cm判(ロクヨンゴまたはセミ判、一般に16枚撮り)、6×6cm判(ロクロク、一般に12枚撮り)に流用され裏紙にコマ数表示もされている。その後6×7cm判(ロクナナ、10枚撮り)、6×8cm判(ロクハチ、9枚撮り)、6×12cm判(ロクイチニー、6枚撮り)、6×17cm判(ロクイチナナ、4枚撮り)、6×24cm判(3枚撮り)などのフォーマットにも使用されている。特殊なものとしてパノンカメラのパノンカメラAIIは50×112mmの6枚撮り、日本パノックスのパノフィックは50×120mmの6枚撮り。一般のDPE店などミニラボでは現像やプリントの処理ができない場合があり、その場合は大手の現像所に依頼するか、もしくはミニラボで現像所に取り次いでもらうことになる。スプールは当初金属縁のついた木製であったが後に金属製、さらに現在ではプラスチック製になっている。
120フィルムは市場流通量が割合多いので愛好者も多いが、フィルムの取り扱いには注意を要する。120フィルムの構造はフィルムの裏面に遮光紙を重ね合わせ巻き軸に巻いただけのものなので、フィルム交換に時間が掛かる上、落としてしまえばフィルムが露光する危険性もある。
126(en:126 film)
1963年コダックがフォトキナで発表したカートリッジ入りフィルム。インスタマチックとも呼ばれる。幅35mm、撮影面積は26×26mmの正方形で、カートリッジは後の110フィルムより一回り大きいがよく似た形状。一眼レフも発売され、日本では1970年代に米国製や香港製のカメラが発売されたが110フィルムなどの出現で廃れてしまい、1980年代には僅かにトイカメラが発売されたのみだった。イタリアのフェラーニア社[3]が最近まで製造していた(日本未流通)が現在は生産を中止した模様である。1906年から1949年まで同名の11cm×16.5cm判用のロールフィルム規格が存在したが全く関連はない。
127(en:127 film)
本来は4×6.5cm判(ベスト判、8枚撮り)用であったが、4×4cm判(ヨンヨン、12枚撮り)に流用され1960年代まで多用されたため127=ベスト判=4×4cm判と誤解されている向きもある。4×4cm判の他4×5cm判、4×4.5cm判、4×3cm判(ベスト半裁、16枚撮り)にも流用された。かつてはスーパーサイズと呼ばれたがコダックのヴェスト・ポケット・コダックのヒットによりベスト判と呼ばれるようになった。4×4cm判は2×2inマウントに収まりライカ判用プロジェクターで映写できるため「スーパースライド」と呼ばれて一時期もてはやされたが細軸でカーリングがひどく廃れてしまった。コダック社には最近までエクタクロームにこのサイズのフィルムがあったが1996年に製造中止となった。現在はドイツのMacophotoとクロアチアのフォトケミカいう会社で生産されたフィルムが僅かに流通しているのみである。ユーザーの多くは120フィルムから裁断、巻き直ししたものを使用している。一部の販売店で購入することができ、また自作している愛好家もいる。
135(35ミリフィルムを参照)
220
120フィルムと直接の互換性はないが、専用のマガジンや圧板位置調整機構を用意する形で120と220の両フィルムに対応したカメラが多数存在する。裏紙がフィルムの先端と末端にしかないため撮影コマ数が2倍である。赤窓式のカメラではフィルムが感光してしまうため使用できない。
616
フィルムは116と同じだがスプール軸はこちらの方が細い。既に生産中止。頭の「6」は6枚撮りを意味する。
620
フィルムは120と同じだがスプール軸はこちらの方が細い。既に生産中止。このフォーマットのカメラを使っている人は120を620のスプールに巻きなおして使用している。頭の「6」は6枚撮りを意味する。
828
28×40mm。使用したカメラの名称から「バンタム判」とも言われる。
ボルタ(Bolta )
当初は 1935年にドイツ製のボルタヴィットというカメラ専用に開発されたもの。赤窓式のフィルム送りが可能なためフィルム送給機構が簡易にでき、またカメラが比較的小型になるために玩具カメラに多用された。裏紙付きで幅35mm、パーフォレーションのない135フィルムの様である。撮影面積は24×24mmまたは24×36mm。現在は生産されておらず、市販品の入手は不可能。愛好家は当時の裏紙に135フィルムを貼り付けるなどして代用している。
ディスクフィルム (en:disc film)

日本国内で発売されていたディスクフィルム1982年にコダックが発売。直径6.5cmの円盤状フィルムの周辺に放射状に15コマが撮影できる部分が付いており、フロッピーディスクのような薄型のケースに収められていた。コダックとミノルタ(現コニカミノルタホールディングス)で作られまた富士フイルムでは輸出仕様のみ作られたが、撮影面積は8.2×10.6mmと「110」よりもさらに小さく画質が悪いためかあまり普及せず短命に終わり、1998年にはフィルムの生産も終了した。ケースの問題や特殊な形状のフィルムのため、他のフィルムを加工しての代用は非常に困難であり、撮影はもはや完全に不可能である。
IX240(APS)

135フィルム(上)とAPSフィルム(APSフィルムの下の円は大きさ比較のため置いた100円玉)APSカメラ用のフィルム。1996年に登場。小型のカートリッジに収められている。フィルム幅は24mm、撮影面積は16.7×30.2mm。MRC(ミッド・ロール・チェンジ)機能に対応したカメラならば撮影途中でのフィルム交換が可能。またカメラ側で撮影時に様々な情報をフイルムに記録(磁気記録)することができるようになっており、現像/プリント/CD-R記録時にこの情報を利用できる。ニコン、キヤノン、ミノルタから一眼レフが発売される等意欲的な規格であったが、同時期に登場したデジタルカメラに押されて売れ行きが伸びず、将来性が不安視されている。

ミゼット(Midget )
戦前から1950年代にかけて販売されていた日本オリジナルの超小型カメラ(豆カメラと呼ばれた)用のフィルム。マイクロ判とも。裏紙付き。幅16mm、撮影面積は10×14mm判または14×14mm判。かなり前に生産を中止しており、市販品の入手は不可能である。一部のユーザーは120フィルムを加工し、自作して使用している。
ミノックス (en:Minox)
戦前にラトビアで開発されたスパイカメラの代表格とも言える超小型カメラミノックス用のフィルム。本家ミノックスの他にヤシカがアトロンシリーズ、日向工業がミニマックスシリーズ、浅沼商会がアクメルシリーズ、フジがMC-007、メガハウスがシャランシリーズを出している。フイルム幅は9.5mm、撮影面積は8×11mm、かつては36または50枚撮りがあった。日本国内では最近までカラーネガ(ISO100、ISO400)の15枚撮りと30枚撮りが大手カメラ店等で販売されていたが、現在は製造元である株式会社浅沼商会(キング)が生産を中止していたが、株式会社シャランが生産しているようだ(白黒ネガフィルムは現在入手至難品)。また市販の135フィルムをカッターで4分割して(フィルム上下のパーフォレーション部分をカットして取り、中央の撮影面をさらに2分割し、長さを調整して空のカートリッジに挿入する。もちろん作業は全暗黒の中でしなければならない)使用することもできる。構造上フィルムカートリッジ内に光が入りやすく、フィルムの出し入れはなるべく暗い所で行わなければならないとともに、所定の撮影枚数が終了した際には必ず2枚空写しをして巻上げてから(それ以上空写しをしてフィルムをカートリッジに全部巻き込むと光線漏れのを起こす可能性がある)付属のフィルムケースに入れて現像に出さねばならない。一般の写真店に設置されているミニラボ機では現像や焼付けができないため専門の現像所へ送られ、通常のフィルムより時間がかかる。フィルムサイズの関係上から画質は低くなりがちで、用途の限られる特殊なフィルムとも言える。

ペタル(Petal )
聖ペテロ光学のペタル、さくらペタルが使用する。直径24mmの円形シートフィルムに6mm径の写真を6枚撮る。
ラピッドシステム(Rapid System )
アグフアが1930年代から販売して来たカラートカートリッジシステムを改良し、126フィルムに対抗して1964年発表された。35mmフィルムをカートリッジに装填してあり装填が簡単で巻き戻し不要。撮影面積は24×24mmまたは24×36mm。速やかに廃れて現在は生産されていない。フィルムそのものは普通の35mmフィルムと同じであるため、カートリッジさえ残っていれば詰め替えは比較的容易である。
アトム判
4.5×6cmのシートフィルム。写真乾板から移行した規格。名称はアトム (カメラ)に由来する。
大名刺判
6.5×9cmのシートフィルム。写真乾板から移行した規格。
手札判
8×10.5cmのシートフィルム。写真乾板から移行した規格。
大手札判
9×12cmのシートフィルム。写真乾板から移行した規格。
その他
多くの規格があったが既に廃れている。

2009年01月28日

淀古城(よどこじょう)

淀古城(よどこじょう)は京都府京都市伏見区納所北城堀にあった城。納所は木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたりに築城され、三面を川に囲まれた天然の要害で、古くからの商業地「淀」の中核都市であった。

この城の文献上初見は『東院年中行事』の文明(1478年)8月1日に

山城守護代遊佐弾正の代(中略)神保与三佐衛門淀へ入部す

あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

とあり山城国の守護所として記されている。畠山政長守護が応仁の乱に西軍の畠山義就に備えるため、守護所を勝竜寺から当城に移したのではないかと思われている。その後1493年(明応2年)以降に細川氏が山城国を掌握すると守護代級の被官によって守衛され、摂津国、河内国の抑えの城として使用されてきた。

納所北城堀の標札/地名が僅かにその面影を留めているのみ

第一次淀古城の戦い
第一次淀古城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:永正元年(1504年)9月4日-20日
場所:淀古城
結果:細川政元軍の勝利
交戦勢力
細川政元軍 薬師寺元一軍
指揮官
薬師寺長忠、香西元長 薬師寺元一
四宮長能、赤沢朝経
戦力
不明 不明
損害
不明 60兵以上

1504年(永正元年)に入ると赤沢朝経と細川政元が対立するようになる。細川政元は同年3月9日摂津国守護代の薬師寺元一に槇島城に攻城するように命じたが、赤沢朝経軍は600-700兵を従えて城から撤兵したようである。それを知った畠山尚順軍は槇島城と並び交通、軍事の要所であった淀古城を攻城してきた。細川政元軍は神保与三佐衛門を城主としていたようだが、薬師寺元一、薬師寺長忠兄弟、香西元長、内藤軍も入城させ、畠山尚順軍からの攻城戦に備えた。

この時別の局面が展開される。細川政元軍に属していた薬師寺元一が細川澄元を擁立し、細川政元に謀反を仕掛けた。これに呼応した山城国の国人衆と槇島城から赤沢朝経軍が援軍として淀古城に籠もった。しかし薬師寺元一の弟、薬師寺長忠は細川政元軍に属したまま兄と袂を分かつことになる。薬師寺長忠、香西元長は淀古城を攻城し細川政元軍の手に落ちた。淀古城に籠もっていた四宮長能は自害、薬師寺元一は捕えられ同年9月20日京で自害、赤沢朝経は大和国へ敗走していった。

この戦いが契機となり、細川氏との対立が本格化し山城国、河内国、和泉国、摂津国、大和国に戦線が拡大していく。この戦いでは細川政元軍に属して薬師寺長忠、香西元長であったが、2年後の1507年(永正4年)永正の錯乱では、兄が擁立していた細川澄元を自身が擁立し細川政元の暗殺に成功する。

その後細川氏の被官が代々淀古城を治めていたが、細川政権から三好政権に移っていき、1559年(永禄2年)には三好長慶が京を統一すると淀古城も細川氏綱が城主となったが、1563年(永禄6年)にその細川氏綱も死去すると、三好義継が城主となり、ついで松永久秀方の武将が城主となったようである。しかし永禄9年(1566年)7月に勝竜寺城と共に三好三人衆軍に攻城されると、三好長逸方の金子某が城主となったようである。1568年(永禄11年)に織田信長が上洛を果たすと淀古城も織田信長軍の焼き討ちにあい落城してしまう。

第二次淀古城の戦い
第二次淀古城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:天正元年(1573年)8月2日
場所:淀古城周辺
結果:織田信長軍の勝利
交戦勢力
織田信長軍 足利義昭軍
指揮官
木下秀吉
細川藤賢 岩成友通
戦力
不明 不明
損害
不明 不明

豊臣秀吉像天正元年(1573年)2月に、将軍足利義昭は反織田信長を決意し、二条城で兵をあげた。しかし、織田信長の動きも素早く岐阜城を出立、二条城を攻囲した。この時天皇の勧告により二条城を織田信長に明け渡したが、同年7月に槇島城に籠もり再び織田信長討伐の兵を挙げた。足利義昭の要請に応じたのが三好三人衆の岩成友通で、淀古城に立て篭もったが、槇島城が織田信長軍に攻城され(槇島城の戦い)、足利義昭は二人の質子を入れ降伏し河内国に逃亡した。

一方淀古城に立て篭もる岩成友通隊に対しては、木下秀吉隊が対した。木下秀吉は計略を巡らし淀古城の城番頭大炊頭、諏訪三將らを味方につけた。更に織田信長は近隣の勝竜寺城城主細川藤賢に出軍を命じ攻城軍に加わった。これに対応するため岩成友通は淀古城を出軍し奮戦したようである。防御施設が整っている城からわざわざ討って出たのは、大炊頭、諏訪三將らが強く進言したためと言われている。岩成友通は奮戦したが、最後には細川藤賢の家来下津権内に首を取られた。

その首は近江国の高島に出軍中の織田信長の元に届けられ、比類なき働きに嘉賞し着ていた胴衣をかけたと『信長公記』には記されている。

伝 淀殿画像天正10年(1582年)6月本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したと記録され、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いでも利用された。豊臣秀吉の天下となってからは、天正17年(1589年)3月羽柴秀長が淀古城が改修し、豊臣秀吉が側室茶々に与えたものであり産所とする為であった。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴丸が産まれるが1591年(天正19年)に死去してしまった。鶴丸が死亡し羽柴秀次が養子となるが、豊臣秀頼が産まれると羽柴秀次と軋轢が生じ、この城の最後の城主であった木村常陸介も連座、城も廃城となる。1595年(文禄4年)の事であった。

城郭
淀古城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。淀古城は水陸交通の要街として槇島城と並ぶ山城国洛南の二大軍事拠点の一つであった。また西国方面の海産物の集荷市場、魚市場があり、対岸の山崎と並んで京都の要害で、淀古城の東側には現在は存在していない巨椋池が広がっていたと思われている。

1890年(明治23年)の『測量の仮製図』によると、堀跡と納所集落の東側に土塁が記載されていたが、現在跡地には、宅地化、耕作地、納所小学校が建っており、唯一妙教寺に石碑が建つのみで、北城堀や小字城堀という地名が僅かにその面影を留めている。淀古城については数多い歴史があるが、近隣の淀城と違って城郭は不明な点が多い。天守に関しても詳細は不明であるが、『駒井日記』には淀古城の天守が存在していた事が記載されている。淀古城が廃城の後、多くの資材は伏見城建築に使用されたようである。またその後淀城築城の際にはその伏見城から資材が流用された。

城跡へのアクセス
電車でのアクセス
京阪電車 本線 淀駅 → 徒歩約10分
車でのアクセス
京滋バイパス 久御山淀IC → 京都府道15号宇治淀線 → 京都府道126号新町淀停車場線 → 京都府道・大阪府道13号京都守口線
近隣に駐車場無し

妙教寺の山門/淀古城の石碑がある日本の城一覧
日本の合戦一覧
東大寺大仏殿の戦い
織田政権
信長包囲網
豊臣政権

槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)3月から7月にかけて行なわれた織田信長軍と足利義昭軍の戦い。この戦いで義昭が信長に敗れて京都から追放され、実質的に室町幕府は滅亡した。

上京焼き討ち
永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府の第15代将軍に就任した足利義昭は、当初は信長と協調関係にあったが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により次第に信長と対立するようになり、表向きは信長との協調関係は継続していたものの、密かに武田信玄・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如らに信長討伐令を発して信長包囲網を結成した。元亀3年(1572年)には信長から義昭に異見十七箇条が突きつけられ、両者の対立は決定的になる。『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対し反抗する意思を有していたことは明白になっていたとされている。

信長は包囲網に苦しめられ、元亀3年(1572年)10月には武田信玄が西上作戦を開始して東美濃に侵攻するなど危機的状況に陥ったが、元亀4年(1573年)1月頃から信玄が持病を悪化させたために武田軍の進軍は停滞する。このため3月25日、信長は大軍を率いて京都に入った。松永久秀や三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵し、公然と敵対行動を見せた足利義昭を討伐するためである。この上洛の際、義昭の挙兵を諫めた細川藤孝と荒木村重は明智光秀の調略を受けて義昭を見限り、信長に味方するべく逢坂で出迎えている。なお、ルイス・フロイスの『日本史』では、信長が大軍を率いて上洛したときのことを、次のように記している。

「京都の市民は、信長が公方様(足利義昭)を討伐するために軍勢を召集していると聞くや否や、急遽、わずかの地所を隔てていた上京、ならびに下京から立ち去った。その街の混乱や動揺する情景を眺めることは恐ろしいことであった。すなわち、日夜見るものすべては混乱以外の何物でもなく、人々は家財を引き、婦女子や老人は都に近い村落に逃れ、あるいは子供たちを頸や腕に掛け、どこへ行くべきか途方に暮れ、泣きながら市中を彷徨した」
しかし義昭は名目上とはいえ征夷大将軍である。そのため信長は、明智光秀と細川藤孝を使者として義昭のもとに送り、自らの剃髪と人質を差し出すことを条件にして和睦を求めた。しかし義昭は拒絶し、3月30日には京都所司代であった村井貞勝の屋敷を包囲し、焼き払うという軍事行動を行なった。

4月1日、信長は義昭に対する一連の報復のため、義昭の勢力基盤である上京と下京への焼き討ちを命じた。これに驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1300枚、下京は銀800枚を信長に差し出した。信長は下京への焼き討ちは中止したが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許さず、焼き討ちを実行した。このときのことをフロイスの『日本史』では、次のように記している。

「恐るべき戦慄的な情景が展開され、上京は深更から翌日まですべての寺院が焼失し、都周辺の50村が焼け、最後の審判の日さながらであった。兵士や盗賊は僧院に赴き、哀れな僧侶は僧衣を俗衣に代え、袖や懐に自らが所持していた金銀・茶器を隠して逃げたが、そのために追剥ぎにあって所持品や衣服を奪われたうえ、暴行や拷問を受けて隠しておいた金銀の場所まで白状するように脅迫され、結局は白状した。兵士や盗賊らは出会った男女や子供たちからその所持品を奪い取るために残虐な行為を繰り返したが、その行為を見るのはきわめて嘆かわしいことであった」
義昭は信長の上京焼き討ちを二条城で見て、恐怖したという。このときのことも日本史には記述がある。

「公方様の城内では、すでに上京が破壊され焼失されたのを見ていたので、恐怖なり喚声に圧倒されて驚愕は非常なものであった」
そして4月7日、信長は正親町天皇から和睦の勅命が出されたことにより、義昭と和睦した。

室町幕府滅亡
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄が信濃駒場で病死し、信長包囲網は瓦解した。にも関わらず、7月3日に足利義昭は勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英を入れて守らせ、自らは槇島城に立て籠もった。しかし信長は迅速な鎮圧作戦を行ない、7月10日に二条城は信長の勢威を恐れて無血開城した。

続いて信長は槇島城を包囲した。槇島城は宇治川の中州に位置し、深田と川洲に守られた要害ではあったが、もとより織田の大軍の前に守りきれるわけが無い。7月16日、信長は槇島城を攻撃し、足利軍の兵士50人ほどを討ち取り、槇島城の防御施設をほとんど破壊した。これに怖気づいた義昭は、7月18日に嫡男の義尋を人質として差し出して降伏した。

信長は義昭を殺すことで「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌い、7月20日に義昭を妹婿である三好義継の居城・河内若江城に追放した。これにより、実質的に室町幕府は滅亡したのである(ただし、なおも義昭自身は征夷大将軍の地位にあり、従三位の位階も保っていた)。11月16日に若江城の戦いで三好義継が信長に滅ぼされた後、義昭は紀伊に追放され、後に毛利輝元を頼って備後鞆の浦に落ち延びることとなる。

2009年01月20日

崇拝の対象(偶像、イコンなど)を指し示す英語

アイドル (Idol) は、崇拝の対象(偶像、イコンなど)を指し示す英語。語源は「見る」を意味するギリシア語のιδειν(イデイン)で、ειδoς(エイドス、姿)、idola(イドラ、ラテン語、偶像)→idol(英語、偶像)と転じていった。

若者に人気がある若手芸能人(歌手、俳優、タレント)なども指し、デビュー当初から「アイドル」を自称する芸能人が存在するなど、日本において独自の発展を遂げている。

元々は偶像を表す“idol”の意味が発展・変化し「若い人気者」としての意味が成立したのは、1940年代のアメリカでフランク・シナトラが「女学生のアイドル(bobby-soxer's idol)」と呼ばれ人気を博して以来のこととされる。エルヴィス・プレスリーもビートルズもデビュー当時はアイドルと呼ばれていた。

しかし日本においては、ほとんど外国人に対してのみ使われる言葉であり、人気若手芸能人は一般的に「スター」、映画時代に一世を風靡した吉永小百合、浜田光夫らは特に「青春スター」と呼ばれていたが、高度経済成長を達成して生活様式が西洋化・都市化した1970年頃から日本人に対しても違和感無く使われるようになった。 このアイドルという言葉は、未成熟な可愛らしさに愛着を示す日本的美意識を取り入れながら独自の世界を創り上げ、1970年代半ば頃に一般に定着、1980年代には市民権を得た。 戦後から昭和の末期までは、「ブロマイド」の売上実績がすなわちスターやアイドルの人気のバロメータになっていた。

現在アイドルという言葉は、あるコミュニティにおいて人気のある者を指す言葉として用いられる場合がある。名詞的に「学校のアイドル」、「職場のアイドル」などと呼ばれるもの、また同様の形容詞的表現として「アイドル的人気のある人」、「○○ではアイドル並み」といった範囲限定使用がそれである。

概要
1970年代から1980年代の日本では、若年層に向けた歌謡曲を歌う清純派歌手(アイドル歌手)のことを「アイドル」と呼ぶことが多かった。現代的なアイドルを生み出す原動力となったのが、1970年代のオーディション番組スター誕生!である。スター誕生!からは1970年代にピンク・レディーや山口百恵などの1970年代の大スターを輩出し、1980年代前半のアイドルブームの下地となった。1980年代に入り松田聖子、中森明菜、小泉今日子、たのきんトリオ等のアイドル歌謡曲をメインとするアイドルが活躍を始め、アイドルブーム が日本に沸き起こったのである。当時のアイドルの目標の一つが怪物音楽番組ザ・ベストテンへの出場であった。しかし1980年代末以降、アイドル歌謡曲が活動の中心であったアイドルブームは衰退した。

現在(1990年代半ば以降)では、女性アイドルの分類が細分化されており、アイドル歌手だけではなく、映画やドラマなどで女優活動に重点を置く「アイドル女優」、アニメ声優などの声優活動に重点を置く「アイドル声優」、男性誌グラビアで水着姿などを披露する活動が中心の「グラビアアイドル」、CM活動で人気を得る「CMアイドル」、バラエティ番組への出演を活動のメインとする「バラエティアイドル」などジャンルも多様化し、これらを総合的に「アイドル」と呼ぶのが一般的である。アイドル歌手以外のアイドルをアイドルとみなさない考えであっても、伝統的な清純性をセールスポイントとしているグラビアアイドルはアイドルと呼ばれる。

女性アイドルの多様化
女性アイドルは、時代ごと及びジャンルごとに分類されることが多い。

1980年代中頃までは、アイドルは手の届かない遠い存在、庶民の憧れ的な存在であったが、フジテレビの「夕やけニャンニャン」から飛び出したアイドル集団「おニャン子クラブ」は、親しみやすさを前面に打ち出し、従来のアイドル像を覆した。

また、それまでのアイドルと言えば、歌手、俳優、グラビアなど多岐に渡るジャンルで活動した者が多く、薬師丸ひろ子や菊池桃子など、事務所の方針等で水着にならないアイドルは若干いたが、歌手デビューしないアイドルは極めて稀であった。レコードが売れない者はトップアイドルとして認識されない風潮があった。

しかし、山瀬まみ、井森美幸、森口博子など、歌手としてのセールスが芳しくなかったアイドル達が、テレビのバラエティ番組に活路を見出し、活躍するようになった。バラエティアイドルを略した「バラドル」という呼称が普及したのも、この頃である(ただし、森口博子は1990年代に入ってヒット曲に恵まれ、歌手としても成功した)。

1990年代に入ると、かとうれいこ、細川ふみえなどが、恵まれたプロポーションを武器にグラビアアイドルとして活躍した。1970年代にアグネス・ラムが同様の活躍をしたことはあったが、大勢のグラビアアイドルが活躍するようになったのは彼女たちの功績が大きい。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

また、従来はアイドルとは見なされなかった女子アナや、若い女性声優、「特撮ヒロイン」(「平成仮面ライダーシリーズ」、「スーパー戦隊シリーズ」、「ウルトラマンシリーズ」など特撮ヒーローもののヒロイン(正義側・敵側は問わない)役の女優・グラビアアイドル)が支持を集めたほか、15歳以下のアイドルを指すチャイドル(U-15アイドル、ジュニアアイドル)、ヌードグラビア専門のヌードル、若手演歌歌手の演ドルなどの新たな造語が生まれた。また内田有紀、広末涼子、深田恭子などの女優業をメインとするアイドル女優が活躍する。こうしてアイドルの細分化が進み、歌手としての成功は、アイドルとしての成功に必要不可欠ではなくなった(ただし、内田有紀や広末涼子は歌手としても成功した)。

更にサブカルチャーの充実趣向の細分化にあわせ様様な分野のアイドルが生まれるようになり鉄ドル、ロボドル等と名乗るアイドル、浅尾美和、上村愛子、オグシオ(小椋久美子、潮田玲子)などスポーツにおけるアイドルも出現し話題を集めている(知名度の低い種目においてはアイドルを作って話題を集める事も行なわれている)。

2009年01月13日

スパルタ英語塾

ゲストの中でも、一回のみの登場にも関わらず印象深い脇役たちを挙げる。

スパルタ英語塾の教師(声優:松島みのり)
登場話 - 6巻「スパルタ英語塾」(アニメ第39話「残酷!山の英語塾」)
山奥でスパルタ英語塾を営む女教師。生徒に英会話を徹底してマスターさせるため、同塾の合宿中は生徒が日本語を話すことを一切許さず、少しでも話そうものなら鉄拳制裁を加えるとんでもない暴力教師。また、元女子プロレスチャンピオンであるため、彼女のやり方に反発して殴りかかろうとしたあさりとタタミをあっさりと返り討ちにしてしまう。アニメでも登場しているが、原作よりも更に暴力描写が過激になっていた。
エリザベス
登場話 - 7巻「ベッドの怪」
アメリカ人の美少女の霊。彼女が生前使っていたベッドが浜野家に買われ、タタミが憑依された。
死神(しにがみ)(声優:八奈見乗児)
登場話 - 8巻「愛と死をみつめて!?」(アニメ第52話「死神をぶっ飛ばせ!」)
現世に降臨してあさりの前に現れた死神。あさりの軽い風邪を死に際であると勘違いし、あさりを来世に送るために頭を鎌で叩き、あさりの霊魂を幽体離脱させるところまでは成功する。しかし、タタミの猛然たる抵抗にあった挙句、さんごのパンチの前に半殺しの目に逢ってしまう可哀想なキャラクター。彼はなぜか関西弁で話している。
ガリレオ
登場話 - 15巻「天才犬ガリレオくん」
浜野家の近所に住む金田家の飼い犬。異様に目付きが悪く可愛くないが、計算や漢字を読む事ができる天才犬でTVにも出演している。握手すると頭が良くなるという噂を信じたあさり達が会いに行った。あさりとの握手を異常に嫌がって逃げ回るが、好物のケーキに釣られて握手してしまい、ただのアホ犬と化してしまった。
サッカー部のキャプテン
登場話 - 15巻「サッカー部A・Tスカウト作戦」
桜貝小サッカー部のキャプテン。連敗続きの状態を打開すべく、あさりとタタミをサッカー部にスカウトしようとするが、タタミの妨害の前に全て失敗する。彼はあさりにはハンサムと思われていたが、実際は美人の母とブサイクの父の両方の特徴を持つ「顔面夫婦ゲンカ」と言われる程の気持ち悪い顔である。
ピューマ
登場話 - 17巻「母をたずねて三万光年」
宇宙人で、地球より三万光年離れた惑星モルの王女。失踪した父王をさがすため、地球を訪れ、顔が瓜二つなさんごを王の替え玉にするべく連れ去ってしまう。さんごと取っ組み合いのケンカで打ち勝つほど気性は荒く、目的のためには手段を選ばないなど、性格は良いとは言い難いが、星を想う気持ちは強い(タタミ曰く「いかれているが星を想う気持ちは本物」)。偉大な女王だった母親は尊敬しているが、父親の事は全く尊敬していない。ビッグ・トートを操れる数少ない人物でもある。
ピューマの父
登場話 - 17巻「母をたずねて三万光年」
前述のピューマの父親で惑星モルの王。さんごそっくりの顔をしているがれっきとした男性。王としての役目や地位には全く興味を示さず、王位を継いで一か月で惑星モルを逃げ出して他の惑星で好きな絵を描いて暮らしている。代わりに連れ去られたさんごを救うべく、あさりとタタミに強制的に惑星モルまで案内させられる事になる。いい加減かつウジウジしてはっきりしない性格だが、娘の誕生日を覚えているなど人の親としての意識はあるようだ。なお、妻だった女王の死後、王位を継いだとのピューマの台詞から、元々は王族では無く、本業は絵描きで婿養子のような形で結婚したと推測される。

らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ