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2009年01月 アーカイブ

2009年01月01日

森林地帯に住むクサリヘビが二次感染し凶暴化

アダー (Adder)
森林地帯に住むクサリヘビが二次感染し凶暴化した物で、毒性が強くなっている。ゲーム中では無限に出現。GC版ではより悪性の毒をもつ赤色の変異種も存在し、これに咬まれた者は確実に毒に侵される。
ウェブスピナー (Webspinner)
蜘蛛をベースにした初期のB.O.W.だが、知能が著しく欠如しているため兵器としての実用性は乏しい。天井などに張り付き、毒液を吐く。炎による攻撃が有効で、それ以外の武器で倒すと腹部が弾けベビースパイダーが大量に出てくる。
ベビースパイダー(Baby Spider)
ウェブスピナー、ブラックタイガーを倒すと大量に出現する子蜘蛛。子蜘蛛といっても体長は20センチ程度に及ぶ。噛み付いて獲物に襲い掛かるが、毒性はない。
ブラックタイガー(Black Tiger)
逃げ出したウェブスピナーのうちの一体が更に巨大化し人間を襲うようになった固体で、黒く染まった体毛から研究者にその名で呼ばれ恐れられていた。中庭の地下を巣としており、一室に蜘蛛の巣を張り巡らせ侵入者を襲っている。
ワスプ (Wasp)
プラント42の花粉からT-ウイルスの二次感染を起こして巨大化したミツバチで、ウイルスの影響から凶暴になり毒性が高まっている。寄宿舎に異様に大きな巣を作っておりそこから無限に出てくる(GC版ではあるアイテムを使う事によって、全滅させる事ができる)。倒し続けると通常より大きな物が登場するが強さは同じ。
ネプチューン (Neptune)
ホオジロザメのB.O.W.。元々凶暴性のある動物だったためか、T-ウイルスによる変化は比較的小さい。コードはFI-3。寄宿舎地下の大水槽エリアに登場。水中では無敵だが水がなければナイフ攻撃1回で倒せるほど弱い。大型の1匹と小型の2匹が存在する。自分より大きな相手には攻撃しないという習性を持つため、小型のものは攻撃してこない。GC版では寄宿舎地下が広大になっており、その分さらに巨大なクリーチャーになっている。また大型はある方法を使わなければ倒せない様になっている。
プラント42 (Plant42)
寄宿舎の職員が好奇心から植物にT-ウイルスを注射したところ、巨大化して人を襲うようになってしまった物。襲うといっても攻撃に対して反応しての“行動”である。実弾兵器での攻撃を二分の一の確率で無効化する。火炎が有効。対抗する手段としてアンブレラの研究員が「V-JOLT」という薬品を生み出しており、これを根に使用することでかなり弱体化する。余談だがジル編ではシナリオ進行によっては一定のダメージを与えた後にバリーが火炎放射器で倒してくれる。
GC版では部屋の広大化に伴い自身も巨大化しており、花粉による攻撃などが加えられている。
ハンター (Hunter)
人間をベースに、T-ウイルスの作用で爬虫類などの遺伝子を組み込んで強化したB.O.W.。コードはMA-121。類人猿レベルではあるが知能を有しており、調教次第で十数種類のコマンドを理解し、他の個体との連携も可能。硬質な外皮を持ち、大型肉食獣と同等の筋力と反射速度を誇る。兵器としては完成の域に達しており、その後のシリーズにもこのクリーチャーの亜種が登場、本作でもいくつかのリメイク版ではティックスという亜種も存在している。高い耐久力と素早い動作に加え、首狩りという即死攻撃までも持つ。後半の洋館内ではゾンビに代わって大量に登場することから、多くのプレイヤーを苦しめると同時に恐れられた。現在でもバイオハザード内で代表する強敵クリーチャーである。硫酸弾が有効。

みかんいろ バリトン サーファ マスター ハンディー ニュルン すみのえ ロフルス タラップ ステン ハート フォロワー ダイヤ ディク ランド パーク カーブ シャト ラン トップ とうたい ジャン ルー メルク ニックス カレワ とうみょう ぶきいろい ディッシュ ラベル タオイズ ダイアモンド ショウ ベッド おじま ハイボー タイプライ 宇宙ステー ピンタック オートクチ ティンカー カラム モッコク ヤード きくらげ トータル ケトン ヒョウ メンバー チャンネル

2009年01月06日

近衛熙子

近衛 熙子(このえ ひろこ、寛文6年3月26日(1666年4月30日)[1] - 寛保元年2月28日(1741年4月13日))は江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室である。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の皇女・(品宮)常子内親王。夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗る。

延宝元年(1679年)、徳川綱豊(後の6代将軍・家宣)に嫁ぐ。父・基熙にとってこの結婚は不本意な物であったらしく[2]、熙子は近衛家の門葉である平松時庸の養女となって嫁した。但しこの養女縁組は幕府側から見ると幕府を侮辱する行為以外の何物でもなかったために、対外的には秘密とされた。

綱豊との仲は良好だったらしく2人の子供(長女・豊姫、長男・夢月院)を儲けたが、いずれも夭折する。その事で彼女は嘆き悲しみ、そのためかいずれの子供も徳川家とは別に日蓮正宗常泉寺にて戒名を授かる。30年後に夫・綱豊は6代将軍に就任、御台所として江戸城大奥に入った。これにより当時朝廷において閑職にあった父・基熙の権威回復に貢献し、朝廷におけるその政治権力は強まった。

ところが甲府時代とは異なり大奥に入ると夫婦生活は一変し、憂鬱な生活を送っていたといわれている。さらにお喜世の方が側室に迎えられた事によってさらに疎遠になった。

正徳2年(1712年)に夫・家宣は病により没し、熙子も剃髪して院号を天英院と号する。お喜世の方が産んだ家継が将軍宣下を受けたのに伴って従一位を賜り、一位様と呼ばれた。

将軍家継の生母・月光院(お喜世の方)とは不仲であったといわれ、御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では老中や譜代門閥層と結託して月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったとされている。しかしその後は仲も良好になったらしく、家継が病気で危篤状態になり嘆き悲しんでいた月光院を励ましたと言われている。

家継の早世後、紀州藩主の徳川吉宗を8代将軍に迎えるのに尽力したと言われまた吉宗に正室が不在だったこともあり、その後も大奥に権勢を振るい幕府における発言力も絶大であったといわれる。

寛保元年(1741年)、76歳で没。戒名は「天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀」。

日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進した。また、浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進した。

熙子は夫と同じく増上寺に葬られ戦後墓地が売却されたことにより、その墓は昭和34年(1959年)に発掘調査された。墓の上には石製八角塔が建てられていた。ちなみにそれまで将軍正室の墓の形式はバラバラで、天英院の葬儀以後に正室の墓所の形式が定まったと考えられている。

歯が1本も発見されなかったことと顎の骨の形状から晩年すべて歯は抜け落ちていて、髪の毛は残存していたが生前は総白髪になっていた物と推察される。遺体以外の遺品の残存状況は良くなかったが、注目されるのは香木で作った小さな十一面観音像があったことである。この像の裏には「奉刻 辛卯 男子 祈祷 梅窓院住 唯然」と掘られていた[3]。

このほか、大石寺の五重塔脇に熙子の五輪塔が建てられている。

八代将軍の指名
後の八代将軍・吉宗を将軍に指名したのは彼女だとする説がある。理由として、家宣と吉宗の考え方が一番近かったからだと言われている。熙子は当時の江戸城内の最高権力者であったが、彼女が吉宗を指名したことに幕閣や譜代門閥は驚嘆した。大奥の女性が将軍を指名する事は今までに無く、また女性が政治に口出しをする事すら考えられなかったからである。そのため最初は誰しも難色を示したが、熙子は御台所としての立場を最大限に生かし「これは先代将軍家宣公の御本心なのです」と次期将軍に吉宗を強く希望したとされる[4]。これにより幕府は将軍不在という異例の危機を逃れる事が出来たとされる。

これに対して吉宗を推薦したのはライバルの月光院であり、熙子は尾張家・徳川継友や家宣の実弟・松平清武を次期将軍として推していたとする説がある[5]。ちなみに尾張家と近衛家はこの当時縁戚関係にあった[6]ことは留意される。

脚注
^ 『幕府祚胤伝』の記述(享年80)では寛文2年(1662年)生まれになるが、ここでは母親・常子内親王の日記『無上法院殿御日記』に記された生年月日で記述している。
^ 五摂家筆頭の近衛家から武家の、それも将軍ではなく傍系の妻(綱豊の父・徳川綱重は当時の4代将軍・徳川家綱の弟で甲府25万石の藩主だった)をだすことが不満であったようである。参考『徳川将軍家の結婚』山本博文ISBN 4166604805
^ 参考文献『増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体』ISBN 4130660519
^ NHK『その時歴史が動いた』平成18年(2006年)放映。
^ 参考『人物事典 江戸城大奥の女たち』卜部典子ISBN 4-404-01577-1
^ 徳川継友の正室は熙子の弟・近衛家熙の娘である。

演じた俳優
映画
三宅邦子:『絵島生島』(1955年)
高島礼子:『大奥』(2006年)
ドラマ
高野通子:『大奥』(フジテレビ系列、1968年)
東郷晴子:『男は度胸』(NHK、1970-1971年)
加賀まり子:『大奥』(フジテレビ系列、1983年)
岩井友見:『徳川風雲録 御三家の野望』(テレビ東京系列、1992年)
草笛光子:『八代将軍吉宗』(NHK、1995年)
波乃久里子:『炎の奉行 大岡越前守』(テレビ東京系列、1997年)
高島礼子:「大奥スペシャル」(フジテレビ系列、2006年12月29日)
野村真美:『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』(テレビ東京系列、2007年)
南野陽子:『徳川風雲録 八代将軍吉宗』(テレビ東京系列、2008年)

わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

2009年01月13日

スパルタ英語塾

ゲストの中でも、一回のみの登場にも関わらず印象深い脇役たちを挙げる。

スパルタ英語塾の教師(声優:松島みのり)
登場話 - 6巻「スパルタ英語塾」(アニメ第39話「残酷!山の英語塾」)
山奥でスパルタ英語塾を営む女教師。生徒に英会話を徹底してマスターさせるため、同塾の合宿中は生徒が日本語を話すことを一切許さず、少しでも話そうものなら鉄拳制裁を加えるとんでもない暴力教師。また、元女子プロレスチャンピオンであるため、彼女のやり方に反発して殴りかかろうとしたあさりとタタミをあっさりと返り討ちにしてしまう。アニメでも登場しているが、原作よりも更に暴力描写が過激になっていた。
エリザベス
登場話 - 7巻「ベッドの怪」
アメリカ人の美少女の霊。彼女が生前使っていたベッドが浜野家に買われ、タタミが憑依された。
死神(しにがみ)(声優:八奈見乗児)
登場話 - 8巻「愛と死をみつめて!?」(アニメ第52話「死神をぶっ飛ばせ!」)
現世に降臨してあさりの前に現れた死神。あさりの軽い風邪を死に際であると勘違いし、あさりを来世に送るために頭を鎌で叩き、あさりの霊魂を幽体離脱させるところまでは成功する。しかし、タタミの猛然たる抵抗にあった挙句、さんごのパンチの前に半殺しの目に逢ってしまう可哀想なキャラクター。彼はなぜか関西弁で話している。
ガリレオ
登場話 - 15巻「天才犬ガリレオくん」
浜野家の近所に住む金田家の飼い犬。異様に目付きが悪く可愛くないが、計算や漢字を読む事ができる天才犬でTVにも出演している。握手すると頭が良くなるという噂を信じたあさり達が会いに行った。あさりとの握手を異常に嫌がって逃げ回るが、好物のケーキに釣られて握手してしまい、ただのアホ犬と化してしまった。
サッカー部のキャプテン
登場話 - 15巻「サッカー部A・Tスカウト作戦」
桜貝小サッカー部のキャプテン。連敗続きの状態を打開すべく、あさりとタタミをサッカー部にスカウトしようとするが、タタミの妨害の前に全て失敗する。彼はあさりにはハンサムと思われていたが、実際は美人の母とブサイクの父の両方の特徴を持つ「顔面夫婦ゲンカ」と言われる程の気持ち悪い顔である。
ピューマ
登場話 - 17巻「母をたずねて三万光年」
宇宙人で、地球より三万光年離れた惑星モルの王女。失踪した父王をさがすため、地球を訪れ、顔が瓜二つなさんごを王の替え玉にするべく連れ去ってしまう。さんごと取っ組み合いのケンカで打ち勝つほど気性は荒く、目的のためには手段を選ばないなど、性格は良いとは言い難いが、星を想う気持ちは強い(タタミ曰く「いかれているが星を想う気持ちは本物」)。偉大な女王だった母親は尊敬しているが、父親の事は全く尊敬していない。ビッグ・トートを操れる数少ない人物でもある。
ピューマの父
登場話 - 17巻「母をたずねて三万光年」
前述のピューマの父親で惑星モルの王。さんごそっくりの顔をしているがれっきとした男性。王としての役目や地位には全く興味を示さず、王位を継いで一か月で惑星モルを逃げ出して他の惑星で好きな絵を描いて暮らしている。代わりに連れ去られたさんごを救うべく、あさりとタタミに強制的に惑星モルまで案内させられる事になる。いい加減かつウジウジしてはっきりしない性格だが、娘の誕生日を覚えているなど人の親としての意識はあるようだ。なお、妻だった女王の死後、王位を継いだとのピューマの台詞から、元々は王族では無く、本業は絵描きで婿養子のような形で結婚したと推測される。

らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

2009年01月20日

崇拝の対象(偶像、イコンなど)を指し示す英語

アイドル (Idol) は、崇拝の対象(偶像、イコンなど)を指し示す英語。語源は「見る」を意味するギリシア語のιδειν(イデイン)で、ειδoς(エイドス、姿)、idola(イドラ、ラテン語、偶像)→idol(英語、偶像)と転じていった。

若者に人気がある若手芸能人(歌手、俳優、タレント)なども指し、デビュー当初から「アイドル」を自称する芸能人が存在するなど、日本において独自の発展を遂げている。

元々は偶像を表す“idol”の意味が発展・変化し「若い人気者」としての意味が成立したのは、1940年代のアメリカでフランク・シナトラが「女学生のアイドル(bobby-soxer's idol)」と呼ばれ人気を博して以来のこととされる。エルヴィス・プレスリーもビートルズもデビュー当時はアイドルと呼ばれていた。

しかし日本においては、ほとんど外国人に対してのみ使われる言葉であり、人気若手芸能人は一般的に「スター」、映画時代に一世を風靡した吉永小百合、浜田光夫らは特に「青春スター」と呼ばれていたが、高度経済成長を達成して生活様式が西洋化・都市化した1970年頃から日本人に対しても違和感無く使われるようになった。 このアイドルという言葉は、未成熟な可愛らしさに愛着を示す日本的美意識を取り入れながら独自の世界を創り上げ、1970年代半ば頃に一般に定着、1980年代には市民権を得た。 戦後から昭和の末期までは、「ブロマイド」の売上実績がすなわちスターやアイドルの人気のバロメータになっていた。

現在アイドルという言葉は、あるコミュニティにおいて人気のある者を指す言葉として用いられる場合がある。名詞的に「学校のアイドル」、「職場のアイドル」などと呼ばれるもの、また同様の形容詞的表現として「アイドル的人気のある人」、「○○ではアイドル並み」といった範囲限定使用がそれである。

概要
1970年代から1980年代の日本では、若年層に向けた歌謡曲を歌う清純派歌手(アイドル歌手)のことを「アイドル」と呼ぶことが多かった。現代的なアイドルを生み出す原動力となったのが、1970年代のオーディション番組スター誕生!である。スター誕生!からは1970年代にピンク・レディーや山口百恵などの1970年代の大スターを輩出し、1980年代前半のアイドルブームの下地となった。1980年代に入り松田聖子、中森明菜、小泉今日子、たのきんトリオ等のアイドル歌謡曲をメインとするアイドルが活躍を始め、アイドルブーム が日本に沸き起こったのである。当時のアイドルの目標の一つが怪物音楽番組ザ・ベストテンへの出場であった。しかし1980年代末以降、アイドル歌謡曲が活動の中心であったアイドルブームは衰退した。

現在(1990年代半ば以降)では、女性アイドルの分類が細分化されており、アイドル歌手だけではなく、映画やドラマなどで女優活動に重点を置く「アイドル女優」、アニメ声優などの声優活動に重点を置く「アイドル声優」、男性誌グラビアで水着姿などを披露する活動が中心の「グラビアアイドル」、CM活動で人気を得る「CMアイドル」、バラエティ番組への出演を活動のメインとする「バラエティアイドル」などジャンルも多様化し、これらを総合的に「アイドル」と呼ぶのが一般的である。アイドル歌手以外のアイドルをアイドルとみなさない考えであっても、伝統的な清純性をセールスポイントとしているグラビアアイドルはアイドルと呼ばれる。

女性アイドルの多様化
女性アイドルは、時代ごと及びジャンルごとに分類されることが多い。

1980年代中頃までは、アイドルは手の届かない遠い存在、庶民の憧れ的な存在であったが、フジテレビの「夕やけニャンニャン」から飛び出したアイドル集団「おニャン子クラブ」は、親しみやすさを前面に打ち出し、従来のアイドル像を覆した。

また、それまでのアイドルと言えば、歌手、俳優、グラビアなど多岐に渡るジャンルで活動した者が多く、薬師丸ひろ子や菊池桃子など、事務所の方針等で水着にならないアイドルは若干いたが、歌手デビューしないアイドルは極めて稀であった。レコードが売れない者はトップアイドルとして認識されない風潮があった。

しかし、山瀬まみ、井森美幸、森口博子など、歌手としてのセールスが芳しくなかったアイドル達が、テレビのバラエティ番組に活路を見出し、活躍するようになった。バラエティアイドルを略した「バラドル」という呼称が普及したのも、この頃である(ただし、森口博子は1990年代に入ってヒット曲に恵まれ、歌手としても成功した)。

1990年代に入ると、かとうれいこ、細川ふみえなどが、恵まれたプロポーションを武器にグラビアアイドルとして活躍した。1970年代にアグネス・ラムが同様の活躍をしたことはあったが、大勢のグラビアアイドルが活躍するようになったのは彼女たちの功績が大きい。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

また、従来はアイドルとは見なされなかった女子アナや、若い女性声優、「特撮ヒロイン」(「平成仮面ライダーシリーズ」、「スーパー戦隊シリーズ」、「ウルトラマンシリーズ」など特撮ヒーローもののヒロイン(正義側・敵側は問わない)役の女優・グラビアアイドル)が支持を集めたほか、15歳以下のアイドルを指すチャイドル(U-15アイドル、ジュニアアイドル)、ヌードグラビア専門のヌードル、若手演歌歌手の演ドルなどの新たな造語が生まれた。また内田有紀、広末涼子、深田恭子などの女優業をメインとするアイドル女優が活躍する。こうしてアイドルの細分化が進み、歌手としての成功は、アイドルとしての成功に必要不可欠ではなくなった(ただし、内田有紀や広末涼子は歌手としても成功した)。

更にサブカルチャーの充実趣向の細分化にあわせ様様な分野のアイドルが生まれるようになり鉄ドル、ロボドル等と名乗るアイドル、浅尾美和、上村愛子、オグシオ(小椋久美子、潮田玲子)などスポーツにおけるアイドルも出現し話題を集めている(知名度の低い種目においてはアイドルを作って話題を集める事も行なわれている)。

2009年01月28日

淀古城(よどこじょう)

淀古城(よどこじょう)は京都府京都市伏見区納所北城堀にあった城。納所は木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたりに築城され、三面を川に囲まれた天然の要害で、古くからの商業地「淀」の中核都市であった。

この城の文献上初見は『東院年中行事』の文明(1478年)8月1日に

山城守護代遊佐弾正の代(中略)神保与三佐衛門淀へ入部す

あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

とあり山城国の守護所として記されている。畠山政長守護が応仁の乱に西軍の畠山義就に備えるため、守護所を勝竜寺から当城に移したのではないかと思われている。その後1493年(明応2年)以降に細川氏が山城国を掌握すると守護代級の被官によって守衛され、摂津国、河内国の抑えの城として使用されてきた。

納所北城堀の標札/地名が僅かにその面影を留めているのみ

第一次淀古城の戦い
第一次淀古城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:永正元年(1504年)9月4日-20日
場所:淀古城
結果:細川政元軍の勝利
交戦勢力
細川政元軍 薬師寺元一軍
指揮官
薬師寺長忠、香西元長 薬師寺元一
四宮長能、赤沢朝経
戦力
不明 不明
損害
不明 60兵以上

1504年(永正元年)に入ると赤沢朝経と細川政元が対立するようになる。細川政元は同年3月9日摂津国守護代の薬師寺元一に槇島城に攻城するように命じたが、赤沢朝経軍は600-700兵を従えて城から撤兵したようである。それを知った畠山尚順軍は槇島城と並び交通、軍事の要所であった淀古城を攻城してきた。細川政元軍は神保与三佐衛門を城主としていたようだが、薬師寺元一、薬師寺長忠兄弟、香西元長、内藤軍も入城させ、畠山尚順軍からの攻城戦に備えた。

この時別の局面が展開される。細川政元軍に属していた薬師寺元一が細川澄元を擁立し、細川政元に謀反を仕掛けた。これに呼応した山城国の国人衆と槇島城から赤沢朝経軍が援軍として淀古城に籠もった。しかし薬師寺元一の弟、薬師寺長忠は細川政元軍に属したまま兄と袂を分かつことになる。薬師寺長忠、香西元長は淀古城を攻城し細川政元軍の手に落ちた。淀古城に籠もっていた四宮長能は自害、薬師寺元一は捕えられ同年9月20日京で自害、赤沢朝経は大和国へ敗走していった。

この戦いが契機となり、細川氏との対立が本格化し山城国、河内国、和泉国、摂津国、大和国に戦線が拡大していく。この戦いでは細川政元軍に属して薬師寺長忠、香西元長であったが、2年後の1507年(永正4年)永正の錯乱では、兄が擁立していた細川澄元を自身が擁立し細川政元の暗殺に成功する。

その後細川氏の被官が代々淀古城を治めていたが、細川政権から三好政権に移っていき、1559年(永禄2年)には三好長慶が京を統一すると淀古城も細川氏綱が城主となったが、1563年(永禄6年)にその細川氏綱も死去すると、三好義継が城主となり、ついで松永久秀方の武将が城主となったようである。しかし永禄9年(1566年)7月に勝竜寺城と共に三好三人衆軍に攻城されると、三好長逸方の金子某が城主となったようである。1568年(永禄11年)に織田信長が上洛を果たすと淀古城も織田信長軍の焼き討ちにあい落城してしまう。

第二次淀古城の戦い
第二次淀古城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:天正元年(1573年)8月2日
場所:淀古城周辺
結果:織田信長軍の勝利
交戦勢力
織田信長軍 足利義昭軍
指揮官
木下秀吉
細川藤賢 岩成友通
戦力
不明 不明
損害
不明 不明

豊臣秀吉像天正元年(1573年)2月に、将軍足利義昭は反織田信長を決意し、二条城で兵をあげた。しかし、織田信長の動きも素早く岐阜城を出立、二条城を攻囲した。この時天皇の勧告により二条城を織田信長に明け渡したが、同年7月に槇島城に籠もり再び織田信長討伐の兵を挙げた。足利義昭の要請に応じたのが三好三人衆の岩成友通で、淀古城に立て篭もったが、槇島城が織田信長軍に攻城され(槇島城の戦い)、足利義昭は二人の質子を入れ降伏し河内国に逃亡した。

一方淀古城に立て篭もる岩成友通隊に対しては、木下秀吉隊が対した。木下秀吉は計略を巡らし淀古城の城番頭大炊頭、諏訪三將らを味方につけた。更に織田信長は近隣の勝竜寺城城主細川藤賢に出軍を命じ攻城軍に加わった。これに対応するため岩成友通は淀古城を出軍し奮戦したようである。防御施設が整っている城からわざわざ討って出たのは、大炊頭、諏訪三將らが強く進言したためと言われている。岩成友通は奮戦したが、最後には細川藤賢の家来下津権内に首を取られた。

その首は近江国の高島に出軍中の織田信長の元に届けられ、比類なき働きに嘉賞し着ていた胴衣をかけたと『信長公記』には記されている。

伝 淀殿画像天正10年(1582年)6月本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したと記録され、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いでも利用された。豊臣秀吉の天下となってからは、天正17年(1589年)3月羽柴秀長が淀古城が改修し、豊臣秀吉が側室茶々に与えたものであり産所とする為であった。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴丸が産まれるが1591年(天正19年)に死去してしまった。鶴丸が死亡し羽柴秀次が養子となるが、豊臣秀頼が産まれると羽柴秀次と軋轢が生じ、この城の最後の城主であった木村常陸介も連座、城も廃城となる。1595年(文禄4年)の事であった。

城郭
淀古城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。淀古城は水陸交通の要街として槇島城と並ぶ山城国洛南の二大軍事拠点の一つであった。また西国方面の海産物の集荷市場、魚市場があり、対岸の山崎と並んで京都の要害で、淀古城の東側には現在は存在していない巨椋池が広がっていたと思われている。

1890年(明治23年)の『測量の仮製図』によると、堀跡と納所集落の東側に土塁が記載されていたが、現在跡地には、宅地化、耕作地、納所小学校が建っており、唯一妙教寺に石碑が建つのみで、北城堀や小字城堀という地名が僅かにその面影を留めている。淀古城については数多い歴史があるが、近隣の淀城と違って城郭は不明な点が多い。天守に関しても詳細は不明であるが、『駒井日記』には淀古城の天守が存在していた事が記載されている。淀古城が廃城の後、多くの資材は伏見城建築に使用されたようである。またその後淀城築城の際にはその伏見城から資材が流用された。

城跡へのアクセス
電車でのアクセス
京阪電車 本線 淀駅 → 徒歩約10分
車でのアクセス
京滋バイパス 久御山淀IC → 京都府道15号宇治淀線 → 京都府道126号新町淀停車場線 → 京都府道・大阪府道13号京都守口線
近隣に駐車場無し

妙教寺の山門/淀古城の石碑がある日本の城一覧
日本の合戦一覧
東大寺大仏殿の戦い
織田政権
信長包囲網
豊臣政権

槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)3月から7月にかけて行なわれた織田信長軍と足利義昭軍の戦い。この戦いで義昭が信長に敗れて京都から追放され、実質的に室町幕府は滅亡した。

上京焼き討ち
永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府の第15代将軍に就任した足利義昭は、当初は信長と協調関係にあったが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により次第に信長と対立するようになり、表向きは信長との協調関係は継続していたものの、密かに武田信玄・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如らに信長討伐令を発して信長包囲網を結成した。元亀3年(1572年)には信長から義昭に異見十七箇条が突きつけられ、両者の対立は決定的になる。『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対し反抗する意思を有していたことは明白になっていたとされている。

信長は包囲網に苦しめられ、元亀3年(1572年)10月には武田信玄が西上作戦を開始して東美濃に侵攻するなど危機的状況に陥ったが、元亀4年(1573年)1月頃から信玄が持病を悪化させたために武田軍の進軍は停滞する。このため3月25日、信長は大軍を率いて京都に入った。松永久秀や三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵し、公然と敵対行動を見せた足利義昭を討伐するためである。この上洛の際、義昭の挙兵を諫めた細川藤孝と荒木村重は明智光秀の調略を受けて義昭を見限り、信長に味方するべく逢坂で出迎えている。なお、ルイス・フロイスの『日本史』では、信長が大軍を率いて上洛したときのことを、次のように記している。

「京都の市民は、信長が公方様(足利義昭)を討伐するために軍勢を召集していると聞くや否や、急遽、わずかの地所を隔てていた上京、ならびに下京から立ち去った。その街の混乱や動揺する情景を眺めることは恐ろしいことであった。すなわち、日夜見るものすべては混乱以外の何物でもなく、人々は家財を引き、婦女子や老人は都に近い村落に逃れ、あるいは子供たちを頸や腕に掛け、どこへ行くべきか途方に暮れ、泣きながら市中を彷徨した」
しかし義昭は名目上とはいえ征夷大将軍である。そのため信長は、明智光秀と細川藤孝を使者として義昭のもとに送り、自らの剃髪と人質を差し出すことを条件にして和睦を求めた。しかし義昭は拒絶し、3月30日には京都所司代であった村井貞勝の屋敷を包囲し、焼き払うという軍事行動を行なった。

4月1日、信長は義昭に対する一連の報復のため、義昭の勢力基盤である上京と下京への焼き討ちを命じた。これに驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1300枚、下京は銀800枚を信長に差し出した。信長は下京への焼き討ちは中止したが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許さず、焼き討ちを実行した。このときのことをフロイスの『日本史』では、次のように記している。

「恐るべき戦慄的な情景が展開され、上京は深更から翌日まですべての寺院が焼失し、都周辺の50村が焼け、最後の審判の日さながらであった。兵士や盗賊は僧院に赴き、哀れな僧侶は僧衣を俗衣に代え、袖や懐に自らが所持していた金銀・茶器を隠して逃げたが、そのために追剥ぎにあって所持品や衣服を奪われたうえ、暴行や拷問を受けて隠しておいた金銀の場所まで白状するように脅迫され、結局は白状した。兵士や盗賊らは出会った男女や子供たちからその所持品を奪い取るために残虐な行為を繰り返したが、その行為を見るのはきわめて嘆かわしいことであった」
義昭は信長の上京焼き討ちを二条城で見て、恐怖したという。このときのことも日本史には記述がある。

「公方様の城内では、すでに上京が破壊され焼失されたのを見ていたので、恐怖なり喚声に圧倒されて驚愕は非常なものであった」
そして4月7日、信長は正親町天皇から和睦の勅命が出されたことにより、義昭と和睦した。

室町幕府滅亡
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄が信濃駒場で病死し、信長包囲網は瓦解した。にも関わらず、7月3日に足利義昭は勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英を入れて守らせ、自らは槇島城に立て籠もった。しかし信長は迅速な鎮圧作戦を行ない、7月10日に二条城は信長の勢威を恐れて無血開城した。

続いて信長は槇島城を包囲した。槇島城は宇治川の中州に位置し、深田と川洲に守られた要害ではあったが、もとより織田の大軍の前に守りきれるわけが無い。7月16日、信長は槇島城を攻撃し、足利軍の兵士50人ほどを討ち取り、槇島城の防御施設をほとんど破壊した。これに怖気づいた義昭は、7月18日に嫡男の義尋を人質として差し出して降伏した。

信長は義昭を殺すことで「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌い、7月20日に義昭を妹婿である三好義継の居城・河内若江城に追放した。これにより、実質的に室町幕府は滅亡したのである(ただし、なおも義昭自身は征夷大将軍の地位にあり、従三位の位階も保っていた)。11月16日に若江城の戦いで三好義継が信長に滅ぼされた後、義昭は紀伊に追放され、後に毛利輝元を頼って備後鞆の浦に落ち延びることとなる。

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