淀古城(よどこじょう)は京都府京都市伏見区納所北城堀にあった城。納所は木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたりに築城され、三面を川に囲まれた天然の要害で、古くからの商業地「淀」の中核都市であった。
この城の文献上初見は『東院年中行事』の文明(1478年)8月1日に
山城守護代遊佐弾正の代(中略)神保与三佐衛門淀へ入部す
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ
とあり山城国の守護所として記されている。畠山政長守護が応仁の乱に西軍の畠山義就に備えるため、守護所を勝竜寺から当城に移したのではないかと思われている。その後1493年(明応2年)以降に細川氏が山城国を掌握すると守護代級の被官によって守衛され、摂津国、河内国の抑えの城として使用されてきた。
納所北城堀の標札/地名が僅かにその面影を留めているのみ
第一次淀古城の戦い
第一次淀古城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:永正元年(1504年)9月4日-20日
場所:淀古城
結果:細川政元軍の勝利
交戦勢力
細川政元軍 薬師寺元一軍
指揮官
薬師寺長忠、香西元長 薬師寺元一
四宮長能、赤沢朝経
戦力
不明 不明
損害
不明 60兵以上
1504年(永正元年)に入ると赤沢朝経と細川政元が対立するようになる。細川政元は同年3月9日摂津国守護代の薬師寺元一に槇島城に攻城するように命じたが、赤沢朝経軍は600-700兵を従えて城から撤兵したようである。それを知った畠山尚順軍は槇島城と並び交通、軍事の要所であった淀古城を攻城してきた。細川政元軍は神保与三佐衛門を城主としていたようだが、薬師寺元一、薬師寺長忠兄弟、香西元長、内藤軍も入城させ、畠山尚順軍からの攻城戦に備えた。
この時別の局面が展開される。細川政元軍に属していた薬師寺元一が細川澄元を擁立し、細川政元に謀反を仕掛けた。これに呼応した山城国の国人衆と槇島城から赤沢朝経軍が援軍として淀古城に籠もった。しかし薬師寺元一の弟、薬師寺長忠は細川政元軍に属したまま兄と袂を分かつことになる。薬師寺長忠、香西元長は淀古城を攻城し細川政元軍の手に落ちた。淀古城に籠もっていた四宮長能は自害、薬師寺元一は捕えられ同年9月20日京で自害、赤沢朝経は大和国へ敗走していった。
この戦いが契機となり、細川氏との対立が本格化し山城国、河内国、和泉国、摂津国、大和国に戦線が拡大していく。この戦いでは細川政元軍に属して薬師寺長忠、香西元長であったが、2年後の1507年(永正4年)永正の錯乱では、兄が擁立していた細川澄元を自身が擁立し細川政元の暗殺に成功する。
その後細川氏の被官が代々淀古城を治めていたが、細川政権から三好政権に移っていき、1559年(永禄2年)には三好長慶が京を統一すると淀古城も細川氏綱が城主となったが、1563年(永禄6年)にその細川氏綱も死去すると、三好義継が城主となり、ついで松永久秀方の武将が城主となったようである。しかし永禄9年(1566年)7月に勝竜寺城と共に三好三人衆軍に攻城されると、三好長逸方の金子某が城主となったようである。1568年(永禄11年)に織田信長が上洛を果たすと淀古城も織田信長軍の焼き討ちにあい落城してしまう。
第二次淀古城の戦い
第二次淀古城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:天正元年(1573年)8月2日
場所:淀古城周辺
結果:織田信長軍の勝利
交戦勢力
織田信長軍 足利義昭軍
指揮官
木下秀吉
細川藤賢 岩成友通
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
豊臣秀吉像天正元年(1573年)2月に、将軍足利義昭は反織田信長を決意し、二条城で兵をあげた。しかし、織田信長の動きも素早く岐阜城を出立、二条城を攻囲した。この時天皇の勧告により二条城を織田信長に明け渡したが、同年7月に槇島城に籠もり再び織田信長討伐の兵を挙げた。足利義昭の要請に応じたのが三好三人衆の岩成友通で、淀古城に立て篭もったが、槇島城が織田信長軍に攻城され(槇島城の戦い)、足利義昭は二人の質子を入れ降伏し河内国に逃亡した。
一方淀古城に立て篭もる岩成友通隊に対しては、木下秀吉隊が対した。木下秀吉は計略を巡らし淀古城の城番頭大炊頭、諏訪三將らを味方につけた。更に織田信長は近隣の勝竜寺城城主細川藤賢に出軍を命じ攻城軍に加わった。これに対応するため岩成友通は淀古城を出軍し奮戦したようである。防御施設が整っている城からわざわざ討って出たのは、大炊頭、諏訪三將らが強く進言したためと言われている。岩成友通は奮戦したが、最後には細川藤賢の家来下津権内に首を取られた。
その首は近江国の高島に出軍中の織田信長の元に届けられ、比類なき働きに嘉賞し着ていた胴衣をかけたと『信長公記』には記されている。
伝 淀殿画像天正10年(1582年)6月本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したと記録され、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いでも利用された。豊臣秀吉の天下となってからは、天正17年(1589年)3月羽柴秀長が淀古城が改修し、豊臣秀吉が側室茶々に与えたものであり産所とする為であった。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴丸が産まれるが1591年(天正19年)に死去してしまった。鶴丸が死亡し羽柴秀次が養子となるが、豊臣秀頼が産まれると羽柴秀次と軋轢が生じ、この城の最後の城主であった木村常陸介も連座、城も廃城となる。1595年(文禄4年)の事であった。
城郭
淀古城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。淀古城は水陸交通の要街として槇島城と並ぶ山城国洛南の二大軍事拠点の一つであった。また西国方面の海産物の集荷市場、魚市場があり、対岸の山崎と並んで京都の要害で、淀古城の東側には現在は存在していない巨椋池が広がっていたと思われている。
1890年(明治23年)の『測量の仮製図』によると、堀跡と納所集落の東側に土塁が記載されていたが、現在跡地には、宅地化、耕作地、納所小学校が建っており、唯一妙教寺に石碑が建つのみで、北城堀や小字城堀という地名が僅かにその面影を留めている。淀古城については数多い歴史があるが、近隣の淀城と違って城郭は不明な点が多い。天守に関しても詳細は不明であるが、『駒井日記』には淀古城の天守が存在していた事が記載されている。淀古城が廃城の後、多くの資材は伏見城建築に使用されたようである。またその後淀城築城の際にはその伏見城から資材が流用された。
城跡へのアクセス
電車でのアクセス
京阪電車 本線 淀駅 → 徒歩約10分
車でのアクセス
京滋バイパス 久御山淀IC → 京都府道15号宇治淀線 → 京都府道126号新町淀停車場線 → 京都府道・大阪府道13号京都守口線
近隣に駐車場無し
妙教寺の山門/淀古城の石碑がある日本の城一覧
日本の合戦一覧
東大寺大仏殿の戦い
織田政権
信長包囲網
豊臣政権
槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)3月から7月にかけて行なわれた織田信長軍と足利義昭軍の戦い。この戦いで義昭が信長に敗れて京都から追放され、実質的に室町幕府は滅亡した。
上京焼き討ち
永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府の第15代将軍に就任した足利義昭は、当初は信長と協調関係にあったが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により次第に信長と対立するようになり、表向きは信長との協調関係は継続していたものの、密かに武田信玄・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如らに信長討伐令を発して信長包囲網を結成した。元亀3年(1572年)には信長から義昭に異見十七箇条が突きつけられ、両者の対立は決定的になる。『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対し反抗する意思を有していたことは明白になっていたとされている。
信長は包囲網に苦しめられ、元亀3年(1572年)10月には武田信玄が西上作戦を開始して東美濃に侵攻するなど危機的状況に陥ったが、元亀4年(1573年)1月頃から信玄が持病を悪化させたために武田軍の進軍は停滞する。このため3月25日、信長は大軍を率いて京都に入った。松永久秀や三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵し、公然と敵対行動を見せた足利義昭を討伐するためである。この上洛の際、義昭の挙兵を諫めた細川藤孝と荒木村重は明智光秀の調略を受けて義昭を見限り、信長に味方するべく逢坂で出迎えている。なお、ルイス・フロイスの『日本史』では、信長が大軍を率いて上洛したときのことを、次のように記している。
「京都の市民は、信長が公方様(足利義昭)を討伐するために軍勢を召集していると聞くや否や、急遽、わずかの地所を隔てていた上京、ならびに下京から立ち去った。その街の混乱や動揺する情景を眺めることは恐ろしいことであった。すなわち、日夜見るものすべては混乱以外の何物でもなく、人々は家財を引き、婦女子や老人は都に近い村落に逃れ、あるいは子供たちを頸や腕に掛け、どこへ行くべきか途方に暮れ、泣きながら市中を彷徨した」
しかし義昭は名目上とはいえ征夷大将軍である。そのため信長は、明智光秀と細川藤孝を使者として義昭のもとに送り、自らの剃髪と人質を差し出すことを条件にして和睦を求めた。しかし義昭は拒絶し、3月30日には京都所司代であった村井貞勝の屋敷を包囲し、焼き払うという軍事行動を行なった。
4月1日、信長は義昭に対する一連の報復のため、義昭の勢力基盤である上京と下京への焼き討ちを命じた。これに驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1300枚、下京は銀800枚を信長に差し出した。信長は下京への焼き討ちは中止したが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許さず、焼き討ちを実行した。このときのことをフロイスの『日本史』では、次のように記している。
「恐るべき戦慄的な情景が展開され、上京は深更から翌日まですべての寺院が焼失し、都周辺の50村が焼け、最後の審判の日さながらであった。兵士や盗賊は僧院に赴き、哀れな僧侶は僧衣を俗衣に代え、袖や懐に自らが所持していた金銀・茶器を隠して逃げたが、そのために追剥ぎにあって所持品や衣服を奪われたうえ、暴行や拷問を受けて隠しておいた金銀の場所まで白状するように脅迫され、結局は白状した。兵士や盗賊らは出会った男女や子供たちからその所持品を奪い取るために残虐な行為を繰り返したが、その行為を見るのはきわめて嘆かわしいことであった」
義昭は信長の上京焼き討ちを二条城で見て、恐怖したという。このときのことも日本史には記述がある。
「公方様の城内では、すでに上京が破壊され焼失されたのを見ていたので、恐怖なり喚声に圧倒されて驚愕は非常なものであった」
そして4月7日、信長は正親町天皇から和睦の勅命が出されたことにより、義昭と和睦した。
室町幕府滅亡
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄が信濃駒場で病死し、信長包囲網は瓦解した。にも関わらず、7月3日に足利義昭は勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英を入れて守らせ、自らは槇島城に立て籠もった。しかし信長は迅速な鎮圧作戦を行ない、7月10日に二条城は信長の勢威を恐れて無血開城した。
続いて信長は槇島城を包囲した。槇島城は宇治川の中州に位置し、深田と川洲に守られた要害ではあったが、もとより織田の大軍の前に守りきれるわけが無い。7月16日、信長は槇島城を攻撃し、足利軍の兵士50人ほどを討ち取り、槇島城の防御施設をほとんど破壊した。これに怖気づいた義昭は、7月18日に嫡男の義尋を人質として差し出して降伏した。
信長は義昭を殺すことで「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌い、7月20日に義昭を妹婿である三好義継の居城・河内若江城に追放した。これにより、実質的に室町幕府は滅亡したのである(ただし、なおも義昭自身は征夷大将軍の地位にあり、従三位の位階も保っていた)。11月16日に若江城の戦いで三好義継が信長に滅ぼされた後、義昭は紀伊に追放され、後に毛利輝元を頼って備後鞆の浦に落ち延びることとなる。